阿佐見昭彦インターネットギャラリー
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著作

  風になって  記憶・人間・建築・都市
(東京都建築士事務所協会月刊誌 コア東京に連載中)

第9回 イスタンブール

アヤソフィア(1991)
 1990年夏、突如始まったイラク湾岸戦争は、底なしの長期戦になると思われましたが、翌91年早春、最後はあっけなく終局を迎えました。しかし不穏な情勢下、依然として湾航自粛勧告は続いて飛行機はガラ空きです。明け方四時、眼下が漸く白み始める頃、クルド族の住むと言われるイラン─トルコ─アルメニア国境の急峻な山岳地帯を越えました。ノアの箱舟伝説で知られるアララト山を右手に望み、ヴァン湖の上空を飛び、SQ南回り便は成田出発後20時間をかけて、早朝のアタチュルク空港に無事着陸したのでした。
 しかし入国に際して問題がおきました。奥の部屋に通され、ジュラルミンの箱を開けるように命じられたのです。二つの鍵を外すと、分厚い黒色のスポンジを刳り貫いた中から、カメラ4個、レンズ6本、フラッシュ、露出計などが現れました。検査官達が指差して、口々にプロフェッショナルと言い合う中、さらに数人の職員までも加わって覗き込んでいるではありませんか。税金など掛けられたりすると困りますし、賄賂など要求されたらそれころ一大事と不安が脳裏を過ぎります。初めてのトルコ入国で一時はどうなることかと心配したのですが、カメラとレンズの全リストを作成した後、無事に開放されました。
 イスタンブールの中心部は主に三つの区域から成り立っています。ボスフェラス海峡を挟んだ東(東洋)と西(西洋)。そして更にその西側部分が、金角湾を挟んだ南(旧市街)と北(新市街)とに分かれるのですが、この新旧二つの区域を結ぶ大動脈が、彼の有名なガラタ橋なのです。しかもこれ、驚くことに木造の巨大な浮橋ですからいつも揺れていて、その上を夥しい車の群れがひっきりなしに走っているのでした。
 嘗てトルコ軍が東ローマ帝国の首都であったコンスタンチノーブルを攻撃した時、金角湾に木造の船を浮かばせ、鎖で縛り付けながら連結して進入路となし、難攻不落といわれたこの都市を陥落せしめた有名な話を思い出しました。
 このガラタ橋のユニークさは、その橋の下、道路面と海面との隙間を利用してショッピング街が設けられていることでしょうか。今回私の目指す撮影場所、ナルギレ・カフェ《ERZURUM》はこの商店街の中にありました。そこはチャイを飲み、トルコ語で水煙管を意味するNargileが吸える、まあ言ってみれば喫茶店のような場所なのです。
旧ガラタ橋(1991)
 長年にわたり分厚くペンキが塗りたくられた木造の船室風の粗末な室内にあっても、壁に掛けられたケマル・アタチュルクの店の権利を買い取り、以来ここで営業を続けているのだと語る痩身の老店主。
 彼が無言で指差す暗い店の奥。一人の男が恍惚した面持ちでパイプを銜えていました。おまけにその風体、まるでゴッホの絵から抜け出てきたばかりのような男です。室内には所謂“巣窟風”の雰囲気が漂っていましたから、まるで禁断の地にうっかり足を踏み入れて戸惑いを隠せないというほど、怪しそうな空気がぷんぷんと匂う場所だったのです。
 括(くび)れた透明なガラス壜。ステンレスの灰受皿。濡れた褐色の葉タバコとそれを巻きつける紡錘形の陶器の芯。握りにキリム織布を貼り付けた煙管。種火用の豆炭と銅製トルコ式サモワール。これがナルギレを吸引する男たちとの初めての出会いになりました。
 翌92年6月。昨年撮ったこの男達の記憶がまだ生々しい中、私はアンカラのスタッド・ホテルのロビーでガイドのデイルメンジと打ち合わせをしていました。二、三カ月前のこと、あのガラタ橋が突然の火災に見舞われ、海の藻屑と消え去った事件を聞いて茫然自失。隣にはコンクリート造の新ガラタ橋が竣工を間近に控えほぼ完成していたのです。
 当然《ERZURUM》も60年の歴史を背負いながら、煙が水中を通り抜ける際に発生する、あの水煙管特有のゴボ、ゴボ、ゴボという音と共に喪失してしまいました。勿論、あの奇態な老店主もゴッホ男も、その後杳として行方を知れません。写真の持つ記録性《その場に居合わせること》の深遠さ、一期一会で邂逅する偶然性を再認識し、一見何の変哲も無さそうな日常の出来事にも、多くのドラマのあることを思い知らされたのでした。
 東ローマ帝国の世、東方正教会の大聖堂だったアヤソフィアは西暦360年、最初の完成を迎えました。以来、たび重なるドームの崩落、地震や亀裂による破壊、そして火災による消失などを繰り返した末、1453年、コンスタンチノーブルの陥落により、その後数奇な運命を辿ることになりました。キリスト教のイコンは全て除去、封印され、ミナレットとミフラーブが加えられ、教会はモスクに改造されました。第一級の傑作である精微な黄金のモザイク画も全て漆喰で塗り固められていました。それから500年後、漆喰が剥がされてモザイク画の調査が行われ、現在では無宗教の博物館として公開されているのです。
スレイマニエ・モスクのキュリエ(1991)
 トルコでは94年まで四回にわたって撮影を続けました。91年にはアヤソフィアが大規模な内部改修の最中で、木造バタ角の足場が床から高さ50mのドーム頂部まで掛け渡されていました。撮影に邪魔で何たる不運と思ったのは一瞬で、これこそ幸運と思いなおしました。何故ならばこの先数十年間、内部の大改修は在り得ません。木造足場とその上にぽっかり浮かんだ直径30mの大ドームとの対比する姿は今ではもう見ることは出来ません。これも《その場に居合わせること》の御加護というわけです。
 グランド・バザールも大人気の名所です。東西250m×南北200mの建築の中に、口承四千軒とも言われる店が連なり、一度入ったら出られない迷路建築とまで囁かれていますから、初めて一人で足を踏み入れると不安に襲われます。このグランド・バザールの西側と、イスタンブール大学に向かって右手に位置するベヤジット・ジャミーとの間のごく狭い三角地帯が、本狂いとも言える私にとって真に堪えられない通称ブックバザールです。
ナルギレカフェのゴッホ氏(1991)
 そこで知ったのが十六世紀トルコ最大の建築家、トルコのミケランジェロとまで喧伝されたミマル・スィナンでした。トルコを初めとし、西のユーゴやブルガリア、東のシリア、イランやイラクまで、300箇所以上の実績を持つ建築土木の設計者で、エディルネのセリミエ・ジャミーなど傑作は数知れません。トルコでミマルと言えば建築家のこと、アタチュルクと並んで特に有名な人物なのです。
 ここで見つけた本が実に秀逸。美装箱付きハードカバーのカラー本に二冊入り計800ページ。一冊はミマル・スィナンの建築集、他の一冊はスィナンの時代の美術品集。第一刷が3800部。物価の安い国としてはかなり高価でしたが買い求め、その後、トルコ旅行の終わりに毎回この本を買いました。一組は石本建築事務所に、もう一組は日建設計に寄贈いたしました。91年は27,000円、92年は20,000円、93年は10,000円と恐ろしいほど値段が動きました。もっともトルコはハイパーインフレ経済に陥り、91年に一円が28トルコリア(TL)だったものが、やがて10,000TLを大きく越え、2001年には夢の(?)二千万TL札まで出回ったのです。そしてついに2005年、百万分の一という超過激なデノミが行われ、現在新1TLは80円ほどですが、千夜一夜のようです。

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