 |
シデの円形劇場 |
どんな些細なものであっても交通事故など絶対困ります。ここでは派手なクラッシュや悲惨な死傷事故を詳細に語るわけではありません。しかしちょっと大袈裟に言えばトルコ人の価値観、いえ、民族性に関わることになるやもしれない話になりそうなのです。
さて1993年7月のこと、地中海沿岸の観光都市アンタルヤから一泊で、200km東方に位置するアナムール城を撮影しに行った帰りの出来事です。夕焼け迫るアネムリオンの遺跡に佇みながら眼前に広がる地中海を臨み、古代ローマ人の叡智と業績に名状しがたい感動を覚えたものでした。その晩はアランヤの海上に突き出た半島の、急峻な最後部に築かれた城郭に隣接する、ケルバン・サライを修復した三ツ星ホテルに泊まりました。
夜9時、真っ赤に染まりながら暮れゆく大空と、遥か下の地中海を見遣りながら、ドルジャ・アンティークなど、地の赤ワインを注いだグラスを傾けると、遥々、本当に彼方の地まで来てしまった思いで感無量になりました。翌日、シーザーとクレオパトラが逢瀬を重ねたことで名を知られる、シデの円形劇場の遺跡に立ち寄った後、一路アンタルヤのホテルへ向け、ガイド兼通訳のハサン・ウチャールの車で移動していた時の話なのです。
順調な歩みを続けていた車に突然のブレーキ。両手をハンドルから離し、ハサンは交通事故だというような顔つきです。幸いにもこれまでトルコでは交通事故、いえ、正確には事故による交通渋滞などにさえ一度も遭っていませんでした。暫くする間もなく後方に長い車列が出来ました。ハサン、どのくらいかかるかな? 4〜5時間、いや、7〜8時間かもね。何、8時間? 嘘、そんなにかかるはずなど? 1時間あれば動ける?いやいや、それは有り得ないと自信満面で言い返すハサンの言葉に、多少不安を覚えました。
道路は地中海沿岸の大都市アンタルヤと、100km離れた保養地アランヤを結ぶ海岸沿いの幹線道路。しかも一本道で片側一車線。順調に進めば20分でアンタルヤです。しかし迂回すると2〜3時間は余計にかかるというような場所なのです。見えませんが直ぐ先に川らしいと知った時、信じ難い現象が起こって顔面蒼白に。心配は恐怖に変わりました。ハサン、こんなこと日本では有り得ない! でも、ここはトルコだと平然と答えるハサン。
 |
エンフェソスの円形劇場(1991) |
前が完全に塞がれたというのに、どういうわけか車は少しずつ前へ進みます。片側一車線の筈なのに、気が付くと左側対向車線に後ろからどんどん車が詰め寄せていいます。状況は一変しました。左の車の更に左にも車が並び始め、その左奥もそのまた奥も割り込む車で一杯になり始めました。右側も同様で、片側一車線の道路は対抗車線や路肩まで占拠し、何と7、8列の車で一杯になってしまったのです。道理で車は少しずつ進むはずです。
と言うことは? 事故現場を中心に反対側も同じことが?ここで、ハサンの言った時間の意味が分かって絶句しました。トルコ人は大馬鹿だ! こんなこと、両側で隙間なくやればどういう結果になるか分からないのか? 何故って・・・皆早く先に行きたいからさと、事も無げに答えるハサン。そういうことじゃない! 事故の整理が終って車が動き始めれば一体どういうことになる? 上りも下りも車線も前進しようとする車で満杯、蟻の這い出る隙間もないのです。想像するに、後ろでは10kmか20kmに亘って車がひしめいていることでしょう。皆一斉に、気が狂ったようにクラクションをかき鳴らすのでしょうか?どう考えても両方の車が擦れ違えることなど物理的に不可能で、いわば雪隠詰めなのです。ハサンの言った8時間が現実に思えてきます。いや・・・それどころか?
いよいよ今晩は車で夜明かしか? 私は語調を強め、今度は、トルコ人は気狂いだと罵りました。事故から2時間が経過し、8時となりましたがまだ夕方の明るさです。事故現場は近そうです。野次馬根性も手伝って現場を見に行くことにしたのですが、大勢のトルコ人も同じように歩いています。両側は2mほど下がった河川敷の広い草地でしたが、そこにも夥しい車が右往左往です。いよいよ100m先に橋らしきものが見えてきましたが、依然、事故現場が確認できずに、ついに橋のとば口まで来てしまいました。幹線道路に架かる橋としては少々小振りですし鋼鉄製の欄干は高さ1mしかなくて貧相なものでした。
 |
アンタルヤの交通事故(1993) |
果たして、橋の上は一面の血の海で、真っ赤に染まり・・・・。いえいえ、それにしては少々変です。膝下まで埋まるような、その真っ赤な物体の中で大勢の人々が何か作業をしています。野次馬たちを制するため、大勢の警官が橋の入り口で頑張っています。目を凝らしてよく見ると、その夥しい赤い物体の正体とは、なんと、トマトなのでした。トルコはトマトの大生産国でもあります。歯応えのある表皮を噛み切ると、甘い果汁が青臭い果肉と共に口一杯に広がり、忘れていた心地よい田舎風の味がする、そんなトマトです。
トマトを満載した巨大なメルセデスのトラックが鉄の欄干に衝突し、川まで飛び出して辛うじて止まった状態で、運転席は大きく潰されていました。レッカー車がケーブルを掛けて引っ張っていましたが、欄干に食い込んで一体になったトラックは頑強に抵抗し、ビクともしやしません。事故から三時間、辺りはすでに暗くなり始めています。暫くすると更に大きいレッカー車の到着です。あれだけ大きい作業車が投入されたのですから、いずれトラックは欄干から引き剥がされることでしょう。
しかし問題はその後のことです。
漸く、車の大群の中に警察官の姿が現れ、対抗車線まで溢れた車を整理し始めましたが肩を竦めるだけでどうにもなりません。一部始終を見ていた私にストレスが重く圧し掛かり、諦めの気持ちが過ぎりました。遥か彼方の最後尾から順々に車をパックさせ、ともかくも対抗車線を開けさせる案しか思いつきません。それでも数時間は掛かるでしょう。
 |
セルジュクの無花果採り(1991) |
夜九時を過ぎて車が少し動きました。はい、長い橋の上だけは空いていますから、そこまでは両側から進めますが、それで一巻の終りです。お前達こそどけと激しい言い争いが起こること必然です。しかしハサンが平然と車を進めていると、想像できないことが起こりました。八車線の車列は警察官の交通整理に従い、ジワジワではありますが、徐々に一車線となり、整然と橋を渡り始めました。真っ赤に染まったトマトの海の痕跡を越え、衝突によって激しく食いちぎれた欄干を左手に見ながら、ついに長い橋を越えたのです。
不思議なことに、その間対抗車線を走ってくる車は一台もありません。橋を越えたところで、顔面を潰されたメルセデス・トラックが右側に寄せられて見えました。ハサンの車はスピードを徐々に上げて進みましたが、夥しい警察官の左側に立ち並び、対抗車線の車を全部停止させています。この時間、上りの車が圧倒的に多かったせいでしょうか、ともかく上り優先で復旧し始めたのです。渋滞に遭って既に5時間が経っていました。でもここはトルコ。これがトルコ流のやり方なのです。ですからこの割り込みは永久になくならないでしょう。翌日、アスペンドスの円形劇場とペルゲの遺跡を撮影するために、私たちは再び同じ橋を渡りました。例のメルセデス・トラック君ですが、橋の手前で左側に寄せられ、醜い顔をさらして寂しげにこちらを見ていました。