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ポルト現代美術館(2001) |
冷ややかな猫顔に妖しい色香を漂わせた女優、フランソワーズ・アルヌールを知ったのは、1958年製作の映画“女猫”を通じてでした。多分1962年頃のことです。街を歩いていると、あちこちに貼られた白黒のポスターが目に付きました。高校生に禁じられたような類の映画ではなかったと思いますが、何か堂々と胸を張って見てはいけない気もして、下を向きながら切符を買い、胸をどきどきさせながら場末の映画館で見入った記憶があります。映画の出来がそれほど良かったわけではありませんが、モノクローム映像の中で、アーモンドのようにくっきりした眼を持つ個性的なメーキャップと、妖しい雰囲気を漂わす用紙に加え、“女猫”のロゴが、一瞬、私の心と共振してしまいました。もちろん、これがポルトガルに関係する作品に繋がるなどとは思ってもいませんでしたが、アルヌールを知ったことによって、その後、この映画にも惹かれたのです。
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暗く閉ざされた黒い海辺 |
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打ち上げられたか壊れたはしけ |
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私を見捨てたあなたもいつか |
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私の海に帰るだろう |
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・・・・・・・・・・・・・” |
当時の国家的歌手アマリア・ロドリゲス歌うポルトガルのファド“暗いはしけ”の一節(岩谷時子訳)なのですが、この歌が全篇を通して重要な役割を果たした、アンリ・ベルヌイユ監督、1954年仏映画“過去を持つ愛情”のことを話したいわけです。
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オリエンテ駅(2001) |
戦争から帰還したが、自分を裏切った妻を殺害し、裁判では無罪となり、南米行きの船を求めてリスボンへ来たピエール(ダニエル・ジェラン)。一方、大富豪の夫殺しの嫌疑をかけられ、リスボンを逃避先に選んだ貧しい生い立ちの女カトリーヌ(フランソワーズ・アルヌール)。運転手に身を窶す元パリジェンと背徳の罪を背負った大富豪の未亡人の二人は、リスボンの港で出会い恋に落ちる。それに、カトリーヌをクロと睨み、執拗に追い回す英国人警部(トレバー・ハワード)。この三人を軸として展開するドラマが、強い紫外線が射し込み、塩を含んだ海風が吹き抜け、鰯を焼く匂いの漂いそうな街、リスボンで繰り広げられるのです。恐らくアルヌールが出演した、“漂流物”(1949年)から“リュミエールの子供たち”(1995年)までの三十数本の映画の中でも、たぶんに贔屓目ではありますが、いかにもフランス映画らしいという点において“ヘッドライト”と並ぶ傑作ではないかと思います。
映画“女猫”から40年後のある年の春のこと、ローマ同様、七つの丘を持つ街リスボンを訪れることが出来ました。テージョ川に接する南端のコメルシオ広場から最も賑やかなロッシオ広場へ。そしてリベルダーテ大通りを北北西に緩やかに上ると、ボンバル公爵広場と称される大きな円形ロータリーと、その奥のエドヴァルド七世公園に突き当たります。
この都市軸が最も古い街並みを色濃く残す下町の丘アルファマド・レストランが競い合って店を出しています。アルファマで、漏れ出たファドに惹かれて中に入りました。哀切と抒情に満ちた、けれども力強い声が響き渡ります。ポルトガル・ギターをかき鳴らし、ヴィオーラ(六弦ギター)とバイショ(ベース)が調子をとり、ナザレの女性達のような黒い衣裳に身を包んだ女性のファディスト(歌手)が登場し、両手を胸に合わせたかと思うと左右に広げ、声を振り絞って歌い上げました。
グラナダのアルハンブラ宮殿北側に位置するアルバイシン地区に広がるフラメンコのタブラオを想い出しました。そういえば町の名前ですが、“アル”ファマも“アル”バイシンも、イスラム教徒の支配時に名付けられたのです。リスボンはもう真夜中を過ぎていました。
350km離れたポルト・カンパニャン駅へ向け、サンタ・アポローニア駅を出発した特急アルファは、98年ポルトガル万博の会場になったオリエンテ駅に停まりました。S・カラトラバ設計の駅舎は、細い鉄骨が上に向かって朝顔形に連続して広がり、まるでガラスの天蓋によって覆われたゴッシック建築のようです。遥か彼方には、A・シザが設計した、薄いコンクリートの吊り屋根を持つポルトガル政府館が垣間見え、更にその奥に、テージョ川が悠々と流れていました。
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ポルト・カンパニャン駅(2001) |
閑静な区域の一画を占めるポルト現代美術館は、周囲を囲む高い塀が角の近くで切り取られたところが入り口です。鉄のフラット・バーで作られた、美術館を表すロゴ・タイプの飾り格子扉が、逆光の中でその輪郭を失いながらシー・スルーに浮かび上がっていました。白いコンクリートの壁庇が、片持ちの版になって連続して続く長い導入部を抜けると、突然左側の視界が開けて明るい中庭に出る設計です。若い人や子供達によって、一昔前の美術品は多少退屈するものになってしまいました。多くの宗教絵画、風景画、静物画なども同じ傾向にあるようです。今や印象派の絵は中年以上の人のためにあるかのような具合なのです。しかし若者たちにとって、時代の息吹や感性を抵抗なく感じ取れるのが現代アートかもしれません。それに観客に何かを考えさせてしまう別の狙いもありそうです。多くの子供達がじっと作品の前に佇んでいました。そう、まるで謎解きか何かをするように。
外観同様、内部も素朴で抑制の効いたデザインが貫かれていましたが、現代美術だからこそ問題にならず、実現できたアイデアも多いようです。それにして、ゆったりした土地と豊かな自然環境さえ用意されれば、建築家は肩の力を抜き、独り善がりにならず、もっと自然に振舞えることを教えてくれました。これまで首都リスボンではなく、あくまでもこの規模の都市ポルトを中心に手がけてきたシザの人間に触れるような好作品です。
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ベレンの発見の広場(2001) |
町を分断しているドウロ川の南岸には、今や観光用の役目しか果たさないボルト・ワインの運搬船ラーベラが何艘も停泊しています。岸辺に沿った丘陵地には多くのワイン・セラーが建てられ、その奥に鉄骨造のドン・ルイス一世橋が見えています。ポルト・ワインの葡萄は、糖分量に応じて高く買い取られるため、農民は糖分の高い葡萄への改良に凌ぎをけずっているのです。葡萄の生産とは、アルカリの痩せ地を耕し、厳寒の冬を越し、猛暑の夏と対決し、糖分を高める作業との戦いです。アルコール度数も糖分が高い分ワインより高く、甘さを引き立てる隠し味としてブランデーを少し加えて造ることを知りました。
巨大な薄暗い酒蔵は一定温度に保たれ、ホワイト・オーク製の樽が整然と横置きに並べられ、丸い蓋には四桁の数字が白く刻印され、ビンテージものとしての出番を静かに待っていました。以前見学した宮崎の芋焼酎工場を思い出します。栗のような色と甘さと触感。品種改良を繰り返し、収穫した芋を賽の目状に切って醗酵させていましたが、この賽の目の大きさと温度管理が肝心です。賽は大き過ぎると醗酵せず、小さ過ぎると腐敗します。熟練の業が求められる酒造りは何処でも同じなのです。ポルト滞在中、毎日朝から飲んだ甘いワインが帰国してからも癖になり、土曜、日曜の朝と、その後も暫く続きました。