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著作

  風になって  記憶・人間・建築・都市
(東京都建築士事務所協会月刊誌 コア東京に連載中)

第15回 タルーダント、エッサウィラ

マラケシュ・クトゥビアの塔(1999)
 ホテル・ラ・マムーニアを出たところで、赤茶色のジュラバ姿の男が近寄ってきました。メディナの迷路を歩くにはガイドが必要ですぞ。その誘いを断ろうとして思いとどまりました。明後日、このマラケシュから16世紀にサアード朝の都がおかれた古都タルーダントに発たねばならなかったからです。離れた場所ですし、北アフリカの最高峰トゥブカル山の聳えるアトラス山脈を越えますから良い運転手が必要でした。顔を見返し、じっと眼を見つめると敬虔そうなモスリムです。この男から情報を? 今朝、コンシェルジェに訊いたタクシー料金が法外で、その半分くらいで行ける筈が私の計算でした。今回はマラケシュからタルーダントへ。そしてそこからアガディール経由でエッサウィラへ。最後に再びマラケシュへと戻る、一辺が200kmの三角形を描く1週間の旅なのです。モロッコはイスラム圏ではチュニジアやトルコと並んで旅行し易い観光国です。エキゾチックで、物価も安く、フランス語が通じることも理由になって、3年前に次いで二度目の旅となりました。
 ガイド料金は通常半日3時間で3000円ほどです。一度来ているとはいえメディナは迷路。ガイドに先導してもらえば効果的に歩けますし、途中それとなくタクシー料金なども尋ねられます。そう思い立ってガイドに身分証明書の提示を求めました。彼らはいつも小さいオフィシャル・ライセンスを首からぶら下げています。結局、このガイドを雇い、クトゥビアの塔の下を右に回り込み、ジャマエル・フナ広場からメディナへ入ったのでした。
タルーダント(2004)
 翌々日の朝、約束通りに運転手がフロントに姿を見せましたが、料金は計算通りでした。いつものことですが、運転免許証を提出させてフロントでコピーをとり、スケジュールを書き込み、チップと共にコンシェルジェを渡します。これからこの運転手とタルーダントに行くから覚えているようにという意味です。この全てのやり取りを運転手に良く見えるように大げさにすることが、用心深いに越したことはない、いつものやり方なのです。
 フロントガラスの一部が割れているらしく、二本のガムテープが視界を三つに分断しています。それでも20年前のポンコツベンツは轟音を響かせ120kmで疾走すると、ほどなくマラケシュの南方45kmに聳えるトゥプカル山(4165m)が左の視界に入ってきました。アスニからウーリゲンへ。そしてイジュウカクの手前でコーヒーブレイクです。
 城壁の町、古都タルーダントでは、周囲を土で築いた存在感のある厚い城壁や、その内部のメディナを見たかったのですが、ラ・マムーニアと並び、モロッコを代表するホテルであるGazelle d’or(金のガゼール)も、是非とも立ち寄るべき目標でした。
 16世紀、都がタルータントに置かれた時、旧市街の城壁内に建てられた旧総督邸が今はホテルになっています。そのPalais Salemにチェックインし、Hotel Gazelle d’orについてコンシェルジェに訊ねますと、宿泊客以外は中に入れないとの説明です。しかし、一つ手があるとも明かされました。宿泊客が少ないか、空きがありそうであれば、一般客であっても、ディナーを申し込んで食事が出来るのです。但し、外部のゲストはメニューがフルコースと決まっているが、それでも良いかと念を押されました。
 こうしてまだ日差しの強い夜8時、車を呼んで郊外に向かいました。ベルギー人男爵と米人の妻とが25万坪の広大な土地と狩猟小屋を改造し、1961年にオープンしたホテルなのです。町を出て数分もすると延々と続く土壁が視界に入りました。更にその土壁に沿って潔く車を走らせると、門番の控える閉ざされた鉄の門に行き着きます。タクシーを停めて名を名乗り、確認されて内部に入りますと、竹薮の中にぽっかり穴を開けたような薄暗く長い通路が続きます。しばらく走り、漸く車が横付けされた所は、外壁一面に植物がへばり付いた石積みの古い館で、その僅かに残された壁に小さい窓が幾つか穿たれています。
エッサウィラの城砦(2004)
 まず庭へ回りますと、ベージュのライムストーンで作られた瀟酒なコテージが30棟、バラの咲く芝生の庭に囲まれて森の中に点在して見えます。一回りして玄関に立ち戻り、扉を押し開きますと、リニューアルされたばかりのモダンなインテリアです。長い導入部を進むとロビーに出ますが、そこは広い上に有機的な形状のため、ゲスト同士の視線の見合いが巧みに避けられ、食前酒やミント茶を楽しむために、ゆったりとくつろげる設計です。ドライ・シェリーなど空けるや否や、何処からともなく民族衣装姿のメートル・ドテルが現れ、お代わりか、さもなくば食事にするかを伺います。この慇懃丁重な振る舞いに釣られてティオペペをもう一杯頼んでしまうほど、このような夜は特に長いものなのです。
レストランに入ると危うく声を上げそうになりました。二つの輪を組み合わせた円形プラン、寄席木細工の床、ベージュのインド砂岩塗り込め壁、天井中央から放吻線を描いて垂れ下がる光沢のあるサテンの天井、タッセルバンドで画側の壁に括られた大きいドレープの姿。ええそうです。村野藤吾氏が設計した箱根プリンスホテル(1978)や樹木園(1971)のデザインに酷似していたからでした。さて食事は、98年のマルゴーに仏料理でしたが.豊富な香辛料や地の野菜の付け合わせなどの工夫で、モロッコらしさが感じられるのは良いことです。
エッサウィラ。この軽快な響きを持つ都市の名前に惹かれてこの旅を決めたのでした。昔から芸術・文化人が集まる街という記事にも興味を持ちました。タルーダントからリゾート都市アガディールまで80km。そしてアガディールからエッサウィラまでは150km。
エッサウィラの造船場(2004)
15世紀から始まる大航海時代。海の覇者ポルトガルが興隆を極めた時代にエッサウィラは統治され、Mogadorと呼ばれました。その後城砦を築き、西アフリカ沿岸でポルトガルの貿易・軍事の拠点になったのです。常に強い偏西風が吹き、白い波頭が砕け散る岩礁帯沿いに、高い城壁に囲まれたメディナが築かれました。ポルトガルの統治は百年ほどで終焉し、ペルベル人の支配の下、スルタンの命によって仏人廷築家テオドール・クールニュがこの街を近代的に改造しましたが、オスマン男爵バリ改造の実に百年前のことです。その後仏植民地となり、中心地がカサブランカに移ると街は衰退の一途を辿りました。再び
エッサウィラの名前を取り戻したのは、モロッコの独立、1956年のことなのです。
メディナの突端に位置する波止場に向き合う“海の門”を形作る石造の城壁。そのコーナー部に設けられた円柱状の櫓。世界遺産に指定されているペレンの塔を彷佛とさせるデザインですから、ポルトガルとの関係に気づく方も多いことでしょう。
メディナといえばフェズのような大迷宮を想像し、入ったら最後、一人では出られないイメージもありますが、その点エッサウィラは違います。東北のドゥッカラ門から海の門へ通じるモハメット・ゼルクトゥー二大通りに、マラケシュ門とスバァ門、また砲台塁のスカラから繋がる道が直角に交わります。これらの道と城壁に沿う外周道路が整然とした骨格を形成しているのです。おまけにレベルは全て平らですから、初めての旅行者でもガイド無しに安心して歩けます。海からの強い潮風に絶えず吹かれながら、毎日たくさんの画廊やショップを覗き、終日メディナを彷徨いました。

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