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著作

  風になって  記憶・人間・建築・都市
(東京都建築士事務所協会月刊誌 コア東京に連載中)

第17回 北京

北京天壇地(1988)
 1985年春、前年に続いて二度目の中国訪問になりました。朝鮮半島の上を飛んで直接北京には行けませんから、最短でも上海経由で4時間半のフライトです。為替レートは一元≒百円。兌換紙幣と人民幣との二重通貨制度による時代でした。兌換紙幣といっても金貨との交換はできませんが、外国通貨と両替できる紙幣のことで、ホテル、レストラン、商店など全ての場所で使えます。一方、人民幣は使用に大きい制限がありますし、公式には外貨とも交娯できません。二種の紙幣による差別の上に、たとえ同じ買い物でも二重三重の価格が付けられたようです。特に途上国において、観光業は国家の重要な基軸になりますから、豊かな外国人旅行者と自国民とに差をつけ、外貨を吸い上げる仕組みなのです。
この時は、偶燃レーガン大統領の訪中と重なりました。記念となる訪中に合わせて完成した長城飯店では、市内で食べられないほど美味しいパンとコーヒーにありつける噂が飛び交い、わざわざ朝食を食べに行きましたが、残念ながら期待にはほど遠い味でした。レーガンさんにも同じものが供されたのでしょうか?街から80km離れた八達嶺長城に行った時、友誼商店や王府井で買い吻をしようとした時、大統領一行とはちあわせとなりましたが、三十分ほど待たされただけだったのは、まずまず幸運と言うべきでしょう。
当時、浦和市文化センターの玄関を飾るタベストリーの製作を天津段通で予定していました。浦和市は河南省の省都である鄭州(ていしゅう)市と姉妹提携を結んでいたため、何か緑のある案をと考えていたところ、紀元前1700〜1000年、この一帯に栄華を極めた殷王朝があったことから青銅器のイメージを使ったり、中国王朝の首都になった洛陽市が近くにあることなどから、古都の絵物語風のデザインを提案。その打ち合わせのため、列車で二時間ほどの距離にある天津に行きましたが、滞在した天津賓館の周りにさえ、堆く積み上げられた瓦礫の山が数多く残っていた記憶が鮮明です。死者二十数万人、被災者百万
人といわれる唐山大地震の影響が100q離れた天津の中心部にも及んでいたと知りました。
太原で(1988)
道路の両側に延々と植えられた柳の木。その根元に塗られた白い石灰を目安に運転するためか、車は夜間でも前照灯を点けずに疾走しました。前方に車らしきものを認めた時だけ、照明をチカチカと点けたり消したりすると、相手も同じ方法で合図を返します。街中でも同じ作法ですので、間々、共産党幹部が乗る高級車“紅旗”などに出合っても、夥しい群集は無視するかの如く歩きますから、車はクラクションをかき鳴らし、例のチカチカ点灯を繰り遮し、人民を蹴散らして進みます。全く肝を冷やすようなドライブなのです。
この旅は最後に落ちがありました。帰り便が北京から上海空港に着陸しましたが、何時までたっても駐機場に留まったままで一向に離陸しようとしませんし、説明のアナウンスもありません。帰宅してTVを見て分かったことですが、あの時、レーガン大統領の専用機が西安から上海空港へ着陸したようです。そしてグアム島のアンダーソン基地へ向かって飛び立つまで、われわれの飛行機は離陸できずに待機させられていたのでした。
紫禁城午門東橋(1988)
天安門事件(89/6)の半年前となる1988年9月、三回目の中国訪問のことです。僅か3年後ですのに、北京は大きく様変わりしていました。レストランは人研(人造石と研ぎ出し仕上げ)の床から綺麗なカーペットに。もはや海老の頭や蟹の甲羅を直接床に捨てるような場面は見受けられません。冷えたビールが丁寧に置かれ、到る所でもてなしの作法が目に付きます。以前は、皆、薄汚れて綿のはみ出たカーキ色のコートを着、女も男と岡じ人民服姿で化粧もせず、遠くから区別できない有様でしたが、これらもすっかり変ったのです。
この時は500km離れた、黒酢で有名な山西省の省都太原に行き、街から更に80km奥地の寒村で働く石工達を撮影しました。夕方ホテルに戻ってTVをつけると異様な光景に眼が釘付けになりました。数万余の大群衆が一糸乱れず蠢いていたからです。スタンドで波打ち揺れる人文宇に、民族衣装を着た女性達の華やかな踊り。ミサイルを積んだ軍用車と戦軍の進行。鉄砲を担ぎ、顔を45度捻り、機械の如く規則的に両腕を振り、大袈裟に長靴を蹴り上げる兵隊達は、皆、正面席を仰ぎ見ています。北朝鮮の歓迎軍事パレードですから、右手を掲げた金日成の姿は直ぐ分かりましたが、隣の賓客がいったい誰なのか不明でした。
帰国後かなり経ってからの事です。その賓客こそ、当時中国家主席になったばかりの楊尚昆(88/4〜93/3)であることを知りました。ケーブルテレビも無い時代のことで、ケーブルテレビも無い時代のことで、海外放送も見れず、日本にいたら斯様な珍しい光景を目撃することなど到底不可能でした。
北京駅前広場(1988)
太原で撮影を済ませて北京に帰る朝、またもや問題が起きました。街から15km離れた小店鎮武宿村に太原空港があり、我々が飛行場へ到着すると大勢の兵隊や職員が勢揃いし、両手を×印にして、今日は何処にも飛ばない、帰れ帰れと言っているのです。明日は?と尋ねますと、明日も飛ばないとの返事。さっと顔が蒼ざめました。
車を飛ばせば太原発の列軍に次の楡次駅で間に合うとガイドが提案。ともかく9時間乗れぱ夜には北京駅に着くのです。善は急げと疾走し、遂に楡次で寝台車を捕まえました。列車が動き出さぬよう、先ずホームで車掌を押さえました。無効になった航空券をヒラヒラと見せ、潜り込もうと必死です。これが功を奏したのか、なんとか軟臥車(1等寝台)の廊下にある折り畳み椅子に座り込むと、危機一髪、列車は汽笛を鳴らして動き始めたのです。脇のコンパートメント席から4人の中国人がこちらを見ています。自分は神戸にいたという老医者夫婦が日本語で話しかけてきました。もう一組は退役陸軍将軍と付き人でした。
車掌が使った手は不明ですが、とにかく硬臥(2等寝台)の一段目四席の確保に成功しました。茶碗を持たない我々は湯も茶も飲めません。車内販売を見つけるやレイチジュースを買い占めましたが、まだ先は長いと思うと朝抜きで腹が鳴ります。乗客は紙皿に煮込み汁の打っ掛け飯を食べていますが、さすがに手が出ません。程なく食堂車の開始が放送されると例の退役将軍の付き人が現れました。食堂車は一等客が優先で、彼らの切符を持ってきてくれたのです。等級の差別は三つで、順番、黒塗りの箸(二等は竹箸)、膝掛け紙一牧の違い。なんとか食事を終えるとやっと気持ちにゆとりが生まれました。汽車は時速70km、石家荘経由で無事に夜の北京駅に着きましたが、問題はこれで終わらなかったのです。
エアコン無しの汽車に揺られて9時間。直ぐにでもシャワーを浴びたかったのですが、北京飯店の受付で不測の事態です。共産党幹部の不意の宿泊で予約済の部屋が全てキャンセルです。ホテル側との押し問答の末、やっと宿泊先に目処が付き、車は暗い道を郊外に突っ走りました。多少不安を感じる頃、大勢の兵隊に警護された鉄の門の前で、車は一端停止。敬礼の列を唖然と見遣りながら、ある洋館に横付けされました。広大な敷地を持つ釣魚台国賓館の第三楼でした。当時は、身元の確かな外国人であれば泊まれたようですが、その後は国家元首しか泊まれなくなりました。しかし2001年から、公式行事の無い楊合は、
再び一般人にも開放されるようになったと聞いています。

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