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チャーチ・ストリート(2001) |
1971年に行われた(77年開館)国際コンペは衝撃的結果を全世界にもたらしました。実に681案もの中からピアノ+ロジャースの革新的提案が選ばれたからですが、これは通称ハイテク建築のさきがけとなりました。歴史的な街並みや都市景観を永々と守り続けてきたパリにあって、ポンビドゥーセンターのコンペは、ジャン・ブルーヴェが審査委員長だったことが当選案決定に大きく影響したとも言われました。しかし実際はいつ登場してもおかしくない状況の中で、まさに弾かれたように登場した案だったのです。
何故英国籍の、または英国に深く関係する建築家が中心となって、ハイテクと称される建築が延生したのでしょうか? しかも最初はロンドンではなく、このようにパリでした。その後少し時間があきますが、1985年、ノーマン・フォスターによる香港上海銀行本社ビル。翌86年にはリチャード・ロジャースによりロイズ・オブ・ロンドンが完成しました。さらにロンドンで、大御所マイケル・ホプキンスが91年にブラッケン・ハウスの増改築を。そして93年には、ニコラス・グリムショーの設計によりロンドン・ウォーター・ルー駅が完成されました。
経営者に労働者という社会構造のもと、新動力源である蒸気機関によって、最も先進的な技術である鉄や工業製品を大量生産するというような産業革命を引き起こした国が、この英国だったことが大きく影響しているとも思われます。1960−70年にかけて活耀した建築家のグループ、アーキグラムの存在とも無縁ではなさそうです。それに、実はこの時期、1962年にレコードデビューし、1970年に解散した革新的ロックバンドグループ《ビートルズ》の活動とぴったり重なるのも、偶然とは言い切れない興味深い事実です。大英帝国とまで言われた極めて重い言葉に象徴される、長年続いた保守的なるものに対する反発や対抗心が、最も強いお国柄だった所為なのかもしれません。
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ロイズ・オブ・ロンドン(1995) |
88年に次いで、95年の初夏にロンドン入りしましたが、目的は建築とは別にありました。ブルームズベリーを東西に結ぶグレイト・ラッセル・ストリートに面するのが、七百万点もの所蔵品を持つ世界最大級の大英博物館です。よく歴史の妙などと言いますが、1799年、もしナポレオンがエジプトに侵略しなかったならば、カイロの北北西170km、アレキサンドリアの東北東50kmに位置するラシッド村(Rashid=Rosseta)の要塞工事現場で、ロゼッタ・ストーンは発見されなかったかもしれません。更に、ナポレオンの侵略が成功裏に終わったならば、今頃この石はルーブル美術館で、モナリザやミロのヴィーナスと同格の超日玉品として展示されていたに違いありません。しかしここが歴史の妙なのです。
石が発見されて二年後の1801年、ナポレオンがパリに戻っている時、今度は英軍がカイロへ侵攻してきました。フランスは英国との抗争に敗れ、アレキサンダー条約にも記された降伏の条件として、この石は多くの歴史的出土品と共に英国に渡りました。もちろんエジプトも所有権を主張したのでしょうが、力関係は歴然でした。こうしてロゼッタ・ストーンは大国の略奪まがいのやり取りを経て、1802年より大英博吻館の収蔵品として、即公開されましたが意外な結果をもたらしました。それから20年後、仏人考古学者ジャン=フランソワ・シャンポリオンは大英博物館で現物を目にして、この解読に成功したのです。
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グレイト・コート(2001) |
私の幼児時代、未知の国と言えばエジプトでした。分かり易い造形のピラミッド。不気味な存在のミイラ。そして暗号の如き絵文字。子供心にも表意文字らしいことは分かります。しかし同時に表音文字としても使われたなんて予想外のことでした。ですから、西洋の夥しい専門家は解読できなかったとも言われているのです。古代エジプトのヒエログリフ。エジプト民衆語のデモティック。そして最下段のギリシャ語。三段の文章は全て同じ内容と推測され、ギリシャ語は直ぐ翻訳できたので、ヒエログリフとデモティックの解析は時間の問題とされましたのに。表音と表意を取り混ぜて漢字を使う国ですから、もしもアラビア語、コプト語などを理解する日本人の学者が取り組んでいれば、解明まで20年もかからなかったかもしれないというのは言い過ぎかもしれませんが、いかがでしょうか?
2000年未、今まで立ち入れなかった博物館の中庭が新しい見せ場に変身しました。フォスターは、サッカー場と同面積(70×90 m)のこの中庭に3312枚のガラスパネルの屋根をかけ、グレイト・コートと呼ばれる内部空間を実現させました。ルーブル美術館同様、ここをインテリア化にすることによって、広大な玄関ホールの役割を果たさせたのです。私の知る限り、世界中で最も洗練された複曲面ラチストラス構造のガラス屋根であると思います。
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トラファルガー広場(2001) |
2001年春、ポルトガルでの撮影の帰路、ロンドンに立ち寄りました。この前年、近現代美術専用の分館である話題のテート・モダンが完成していましたが、今回は本家のテート・ブリテン美術館の方が私の訪問目的でした。お目当ては象徴派の一画を占めるラファエル前派の画家達で、特に、ダンテ・ゲイプリエル・ロセッティには格別の関心がありました。
英国は、近隣国のフランス、イタリア、フランドルなどに比べ、大国のわりに良く知られる有名画家の少ないことが私の素朴な疑問であり、不満でもありました。そんな時、出合った絵がロセッティの“プロセルビナ”です。画家の名前にも興味を惹かれました。そもそも英国人であるのにダンテなのですから。しかしロセッティの姓もイタリアの出自を表わしています。ここでロセッティやラファエル前派批評を繰り広げようと言うわけではありません。そこに描かれる女性像に他の画家達に見られない何ものかを感じたからです。
テート・ブリテンには、彼の妻シダルをモデルとした“ベアタ・ベアトリクス”や“受胎告知”、それにローマ神話の女神“プロセルビナ”などが飾られています。30年に亘る画歴の後半70%に描かれたのは、中世嗜好の強い官能的退廃美漂う女性像です。えらの張ったしゃくれた顔、しっかりした顎、額の中心から左右に分けられた豊かな髪、くっきりとした眼、分厚い唇。まるでギリシャ戦士のように毅然たる容貌。植物や花によるウィリアム・モリス風の背景。13世紀のダンテの時代に遡るのでしょうか、ゆったりした襞に包まれる華麗な衣装。初期の作品から使われたロッセッティ・グリーンとも称される深い緑色。
それにしても父親と息子は波乱万丈の人生です。イタリアにおいて革命的秘密結社に関係したかどで死刑判決を受けてナポリ港から脱出し、英国に亡命した詩人であり学者の長男として、ダンテは1828年ロンドンで生まれました。ダンテをこよなく愛した父はその息子に同じ名前を与えました。神曲、新生などで知られるダンテの死後500年後のことです。D.G.ロセッテイは、500年の時空を越え、ダンテ・アリギエーリと永遠の恋人ベアトリーチェに、自分の永遠の恋人エリザベス・シダルの姿を重ね合わせようとしたのでしょうか?
ポスト写実主義は光の表現として印象派を生み、心の問題として象霞派を生みだしたとも言われています。しかし現実は、1827年、真実が写し撮れるといわれる写其の発明によって、写実画家達は皆追い込まれていた時代なのです。