(東京都建築士事務所協会月刊誌 コア東京に連載中)
第1回 仄かな気配
エッフェル塔(2006)
人生の道行きにひとつの区切りをつけるため、何かまとまったことをと考えていたのは、まさに春爛漫というほどのぽかぽか陽気になっていたある日のことでした。いよいよ二年後に還暦を迎えようとしていたのですが、予期せずにフランスから一通のファックスが飛び込んできたのです。
文面によりますと、近々東京に行くことになっているのだが、貴方の個展をフランスで開くことについてご相談申し上げたいが如何か、という内容だったのです。差出人は心当たりの無い名前で、しかもヴァレリーでは、男性なのか女性なのか正直分かりませんでした。かのフランス第五共和制第三代大統領ヴァレリー・ジスカール=デスタン大統領のValeéryが男性で、Valeérieが女性であることを知ったのは後のことでした。
しかし、これには伏線があったのです。2002年夏のこと、銀座キヤノン・サロンで開かせていただいた私の写真展《視線の迷宮ヴァニス》で知り合った、あるフランス人の貿易商からフランスで個展を開いたらどうかと勧められたことを思い出したのです。
当時私は、建築に、写真という表現手段を加えて、創作活動を開始していたのですが、その二年ほど前から、これらに更にもう一つ、新しく彫刻というジャンルが加わりました。ブロンズ鋳造を主体とする立体作品制作にのめり込んでおりまして、厚かましくも発表の機会を窺っていたのでした。
君の作品は日本より海外で発表した方が良い、というような悪友たちの口車についつい乗せられていたこともあり、失礼ながら半信半疑ということで、氏にフランスでの個展開催をお願いしつつも久しくそのことを忘れていたのです。
こうして、美術文化の仕掛け人であるヴァレリー・ドゥーニョー博士との交流が始まりました。当時、彼女はジャポン・クレアシオン教会を設立し、日本とフランスとの文化交流を図る機会をオルガナイズするプロジェクトを幾つか抱えておりました。
そして二年後の2005年夏、私の個展はパリの北方200キロに位置し、リール・メトロポール圏を構成する、Tourcoing市とLille市で開催されることに決定したのでした。しかも、現在フランスの文化遺産に指定されている、12世紀に創設され17世紀に建設された修道院ホスピス・ダヴレ。そしてアンドレ・マルロー氏を記念するメディアテックに付設されているギャラリー・ナダールにおいて、Tourcoing市とHelio写真協会などの共同主催の展示会なのです。さらにLille市の民間ギャラリー“POINT BARRE”が加わり、合計三箇所で、二カ月間にわたる会期というこの上ない素敵な規格となりました。
2006年秋、建築・写真・彫刻の三部門。三箇所に分かれて行われる展示会の統一テーマは、阿佐見昭彦フランス展 建築+写真+彫刻《うつろふ/FUGAciteés》となったのです。
建築については、世界初の正三角形音楽ホール“Salle de Kaleéido”を発表し、彫刻については“IWATAI”11点とデッサン20点、写真については“Empreintes eépheémeéres”と名付けられた70作品を展示いたしました。展示会には、フランスやその隣国のみならず、広くヨーロッパとアフリカ諸国。そして日本や米国からもお客様がお見えになり、おかげさまで素晴らしいイヴェントとなりました。
チュイルリー公園(1993)
このような中、このたびご縁がございまして、社団法人 東京都建築士事務所協会の機関紙“コア東京”の紙面において、白黒写真への招待《風になって 記憶・人間・建築・都市》と名付けられたテーマで、何点かの写真やエッセーを発表させていただくことなりました。
まだ若い頃のことです。私自身、建築家を目標に建築を設計し、また創り上げることを目指しておりましたので、ごく自然なことですが、写真撮影の対象はいつも建築であり建築群であり、またそれらで構成される街や都市でした。
しかもそこには一人の人間も登場しない、どちらかといいますと光と影のコントラストを効かした、無機的なショットばかりに拘泥しておりました。しかし三十の半ばを少し越えた頃のことです。あくまでも建築家として写真を撮っていた私に決定的な影響を与えた人が、本田技研の創設者である本田宗一郎氏だったのです。当時、私は東京青山に建設される予定のホンダ本社ビルの設計を担当しておりました。あの素晴らしい立地や環境を生かし、世界一安全なビルを創ってもらいたいと、情熱を込めて繰り返し語った氏の心の原点が、実は、人間に対する溢れんばかりの“慈愛”であることに気が付いたのはその後間もなくのことでした。
バンテオン(2002)
世界的にみて、卓越した技術者としても著名な氏の心の中心をなすものが、まさに人間たちへの広くて深い思いだったのです。本社ビル設計の基本理念にも、直接間接を問わず様々なアイデアが登場し、その具現化が図られたことは言うまでもありません。こうして本田技研本社ビルは大変ユニークな建築として竣工したのです。
私の撮影に対するスタンスや視点が変わってまいりましたのは、実は本田宗一郎氏の深くて広い人間性に共鳴し心打たれた結果でもあるのです。関連して、私のその後の設計方法や考え方も大きく変化しましたし、撮影の対象は、建築から人間へとシフトし始めたのです。この世で一番素晴らしく、興味深い存在こそ人間たちだと気が付いたのです。
サンジェルマン・デプレ(1992)
私のライフワーク的撮影である《YUKIZURI》は、見知らぬ街をあちこち彷徨う折、それが視覚によるものか、さもなくば聴覚によるものなのか、さてまた第六感なのか分かりませんが、仄かなる何かを感じとると、少し大袈裟な言い方になるのですが、あたかも風のようになって、自然にシャッターが落ち、見知らぬ人間たちや周囲の気配を一瞬に定着させる、いや、そうありたいと願っている写真のことなのです。これには、大きく分けますと、“人間たち”と“建築の中で、または街の中で”の二種類があります。そのほか、建築は都市の記号であると名付けた一連の写真、《都市の記号》。更に、光や影、そしてエスプリに富んだ一連の写真、《密やかな記憶》などです。
建築家である私と、写真家である私がひとつになり、また、人間と建築や都市の気配が重ね合わされるような・・・・。各写真は、センセーショナルなものなど無さそうですし、全てが何気ない日常の一コマ一コマなのですが・・・・しかし、実は何かが?というイマジネーションを持ちながら選定しています。ごらんいただく皆様には、それぞれご自身の豊かで多様な想像という宝物を巡らしながら、さまざまな連想によって、理解や解釈をしていただこうという趣向なのです。
毎回、ひとつの都市、またはひとつの国や地域を選び出し、私とその街や国、また人々や、ものやことなど、関連しあったささやかな記憶を喚起させる意図によって、読者の皆様との触れ合いが出来れば幸いです。
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