阿佐見昭彦インターネットギャラリー
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著作

  風になって  記憶・人間・建築・都市
(東京都建築士事務所協会月刊誌 コア東京に連載中)

第2回 パリ(その1)

アラブ世界研究所(2002)
 海外にたびたび出かけるようになったのはこの25年ほどのことなのですが、フランス、それもパリに行き来するきっかけは東急文化村の仕事を通じてでした。プロジェクトの当初、東急側ではインテリアの一部をアンドレ・プットマンにお願いするというアイデアもあったようなのですが、最終的にジャン・ミッシェル・ヴィルモットに決まりました。
当時、彼はまだメジャーな存在ではありませんでしたが、ジスカール=デスタンが大統領の時、エリゼ宮の執務室や私室のインテリアデザインを担当し、新進気鋭のデザイナーとして期待される存在になっていたのです。文化村の中で三箇所を選び、デザイン提案をしてみないかと誘いをかけました。もしアイデアが良ければ採用するのですが、初のお付き合いなので契約を小刻みとし、発注者が不利益を被らないような方法を考えました。
ヴィルモットはサービス精神旺盛なデザイナーで、パリで作った模型を何個か携えてやって来ました。打ち合わせの最中にこちらが要望すると、その場で次々とスケッチを描いたものです。1988年の秋。いかにもパリらしい古色蒼然とした造りのヴィルモット事務所で打ち合わせをしましたが、会議室の窓からセレスタン川岸通りを越えて、セーヌ川の中にサンルイ島が見えていました。ミネラルウォーターとエスプレッソを飲みながらの打ち合わせが夜に及ぶと、たびたびバゲットとチーズと赤ワインが出てきたものでした。
ある日のこと、夜10時を回ったころに打ち合わせが終わり、ヴィルモットからこれからヌーヴェルの事務所に行かないかと誘いがありました。話によると、今、関西国際空港のコンペを手伝っているということでした。当時J・ヌーヴェルは、この前年にアラブ世界研究所を竣工させ、一躍、フランス建築設計界の寵児となっていました。
チュイルリー公園(2002)
バスチーユ地区に越したばかりの彼の事務所は、無塗装の真新しい小幅板を床に張り、暗緑色に塗装された鋳鉄製の柱が林立しているような大部屋空間でした。設計室の壁面に、リヨン・オペラハウスの特徴的な断面図が貼り付けられていたことを想い起こします。
右手奥に設けられた関空コンペ室の中で紹介されたわけですが、実はヌーヴェルとは、竣工引渡し直前、アラブ世界研究所の前庭で会って以来となる二度目の出会いでした。彼の号令一下、スタッフ全員が中央のテーブルに集まりましたが、テーブルの上には大きい配置図が広げられ、その上にコンセプト・マケットが置かれていたという具合です。
長さ1.8kmにもなるウィングのデザインは、まるで土木測量に使う、通称バカ棒を連想し、中央ターミナルはシンプルな平行六面体の形態で、屋根には巨大な丸い穴が三つ(最終案は10個)あけられていました。実はこの穴、逆円錐形(円形篩と名付けられた)のガラス・カーテンウォールを内部に貫入させているのですが、まるで鳥のように眼下に模型を見ている私にとっては、それが交通規制をする信号機のように見えたのです。
マレ地区のカフェ(2003)
ヌーヴェルの説明後に感想を求められ、まるで製図用具の物差し(スケール)のような正確無比、秩序ある建築だと言いましたら、スタッフ全員から拍手が沸き起こったのです。彼もどうだと言わんばかりに満足そうでした。空港の持つ“安全”“正確”“秩序”“規制”“ルール”を意味するフランス語の《reágle》には《スケール》の意味もあったのです。ヌーヴェルの設á計は、議論に議論を重ねた結果、言葉を見つけ出し、言葉を厚く積み上げることによって解答を作り上げ、建築に纏め上げてゆく手法を取っていたのです。ですから一瞥してコンセプトの《reágle》を指摘したことは、第三者の理解が早く正しく、自分たちの進めるべき明快な方向性が確認されたことにほかなりません。余談になりますが、この時考案した逆円錐形のガラス・カーテンウォールには、よほど深い思い入れがあったとみえ、その後、ベルリンのギャラリー・ラファイエット・デパートで実現されています。
惜しくも当選を逃したヌーヴェルの後日談です。今回のコンペは人口島の中心施設だが、当選者がその後島の全ての建築設計を担当することはありえない。もしも自分の案が当選すれば、これがこの島の暗黙のデザインコードとなり、その後全ての設計者に理解され、引き継がれ、《reágle》をマスター・コンセプトとした建築が続々誕生するはずだ。20年後、この人口島は統一されたデザインで建設が行われ、気がつくと自分が全部デザインしたようになるのさと、笑っていたことが印象的でした。
モンマルトル(2002)
これを機に親しくなったジャン・ヌーヴェルは、1995年に私が出版した写真集《Rite of Light II YUKIZURI》の前書きを書くことを快諾してくれました。その年の夏、彼は私の写真を携えてヴァカンスに入り、南仏から素敵な原稿を送ってくれたのです。
このような付き合いで、彼の代表作に関する知られざる逸話を多少知るようになりました。アラブ世界研究所の北西桁行き側にある円形の図書館のヒントは、実生活では図書館員または図書館長として、図書館を切り離すことの出来ない研究対象にしたアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスや、記号論の大家として著名なウンベルト・エーコの小説“薔薇の名前”に顔を出す、焚書のための迷宮図書館などにあったようです。
更にもう一つ、セーヌ川に面するガラスのファサードを平面図でよく調べると、この局面が複数の曲線線形をつなぎ合わせて出来ていることが分かります。人間の視覚は、一つの線形で立体を作ると形が歪んで見えることを矯正・調整するために、高速道路の設計に使用される線形や、造船設計の線形をヒントに作図したことなどを知りました。
その後のことです。建築家を始め、インテリアデザイナー、グラフィックデザイナー、レンダラー、映画監督、新聞記者、画家、彫刻家、写真家、造園家、照明家などと知己を得、1998年には、日本におけるフランス年の公式記念行事の一つにもなった、クリスチャン・オベット建築展《建築楽章》のプロデュースを引き受けることにもなりました。
このように幾度と無くパリを訪れておりますし、この街について私も何かを発言する義務がありそうです。これまで数多の人々によって膨大な文章が書かれ、また多彩な言葉が発せられてきたパリなのですが、皆様のご意見はいかがでしょうか?
  1. 環境(都市計画的視点):迷路都市と幾何的(放射状)都市とのほど良い調和。街の中心を流れるセーヌ川と中洲島。統一感のある歴史的建造物で埋め尽くされた街。
  2. 人間(民族的視点):ケルト、ゲルマン、ノルマン、フランク、アラブの混血国家で、アフリカ、インドシナ、中近東、東欧、中国からの移民をも抱える他民族集住地区。
  3. 行為(遺産の継承):フランス・ブルボン王朝の栄華(頂点を極めた体制を生み出した有形無形の遺産の継承とその大衆化=美術・音楽・文学・料理・ファッションなど)
こう言いながらも、いやいや、やはり最後にはこう訂正しなくては。言葉の羅列でなく、パリ市民の心意気とは、《たゆたえど沈まず/II tangue mais ne coule pas.》のフレーズに全てが象徴されているとお思いには? それを見に、それに触れに、そして味わうために、私たちはこの街を訪れるのかもしれません。

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