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著作

  風になって  記憶・人間・建築・都市
(東京都建築士事務所協会月刊誌 コア東京に連載中)

第5回 ベルリン(その2)

ホロコースト記念碑(2005)
 ベルリンは1986年に次いで二度目の訪問でしたが、当時はまだドイツ統一はされていませんでした。ブランデンブルグ門の脇から東独に入った私たちは、シャウシュビールハウスや博物館島のベルガモン博物館などを見たまでは、興奮冷めやらぬ思いだったのですが、帰途、東ベルリンのシェーネフェルト飛行場の印象も同様で、免税店にはチョコレート程度しか見られなかった記憶が鮮明なのです。
 1961年、突如築かれた“壁”は、89年、予想外に呆気なく崩壊し、翌90年、ドイツは再び一つに統合されたことはまだ記憶に新しいものです。ベルリンと言えば、19世紀前半、国を代表する建築家カール・フリードリヒ・シンケルの作品が数多くあることでも知られています。彼の代表作、アルテス・ムゼウム(イオニア様式頭飾)、ノイエヴァッヘ(同ドーリア)、ベルリン王立歌劇場(同コリント)など、幾何学的に整然とした平面や立面、ギリシャ風の列柱やペディメントなどにその特徴がありますが、柱頭飾りが様々な様式で造られているのには驚かされました。さすが新古典派ということでしょうか。
 現在、ベルリンは近代・現代建築の宝庫でもあります。市内の建築ブームは凄まじく、多くの著名建築家が数多くのプロジェクトに関わっている状況で、ポツダム広場周りの再開発など超大型の新プロジェクト建設が目白押しなのです。
 しかし一番の話題は、やはりドイツ連邦議会議事堂を中心とするシュプレー川沿岸一帯を占める官庁街の大整備でしょう。ドイツ連邦議会議事堂には我が国であれば到底実現できそうもないアイデアが盛り込まれています。何しろ神聖な議事堂の真上に誰でも自由に登れますし、会期中であれば議会の様子がガラス屋根を通して一目瞭然なのです。設計協議でフォスターが提案した案とはだいぶ変わってしまったとはいえ、このアイデアを承認したドイツ人の度量の大きさに感服します。第二次世界大戦を引き起こし、周囲の国々に与えた戦争責任の重さを痛感している国民だからこそ、この開かれた明快なコンセプトが受け入れられたのかもしれません。もっとも、相当の曲折を経てやっと承認されたというのが事実のようです。加えて8時〜24字まで開館(入場は22時)しているのも凄いことです。我が国も国民との接点について、もっと工夫する時期に来ているのでしょう。現状の議会制民主主義にも多くの矛盾と閉塞感を感じているのは私だけではないでしょうから。
シンケルのアルテス・ムゼウム(2005)
 さてこの官庁街整備のマスタープランを担当したアクセル・シュルテスとシャルロッテン・フランクですが、パウル・ローべ館(国会議員や秘書の施設)と広場を挟んで向き合う連邦首相府も彼らの設計です。その姿、“巨大な洗濯機”と揶揄されているようですが、どこかアラブ産油国の街にでも迷い込んでしまったかのような違和感を感じざるを得ません。
 シュプレー川が半円形に大きく蛇行する部分の中央に広場を設け、西側に連邦首相府・首相官邸などを、また東側に議会関係諸室を、幅120m、長さ1.5kmにわたって都市軸に重ねて配置させています。パリ(セーヌ)、ニューヨーク(ハドソン、イースト)、ベルリン(シュプレー)、ローマ(テヴェレ)、ロンドン(テムズ)など、川を上手く活かしている都市には品格を感じますが、東京は少々残念です。多くの川を活かさずに、潰したり隠蔽してきました。
 この東西に伸びる都市軸は、ドイツ連邦議会議事堂の長辺にあたる南北軸に直行させているのですが、整然とした幾何的プランニングに、まさに西洋的といいますかゲルマン的な価値観を重層させて見る思いです。間もなく北の対岸に、V・ゲルカンの設計による中央駅が完成しますと、これで名実共に首都の骨格が完成することになります。
マリー・エリザベス・リューダー館(2005)
 シュルテスと言いますと、1998年、ベルリン郊外のバウムシュールヴェークに建つ火葬場を外すわけにはいきません。ヨーロッパの火葬場は墓地と一緒に建設されているのが普通です。コンクリート打ち放し仕上げによる硬質な外観デザインとフラッシュ・サーフェスなガラスカーテンウォールや水平ルーバー、そして打ち放しの丸柱がランダムに30本も林立し、木立のホールと名付けられた巨大な玄関ホールなどに目を奪われがちですが、ベルリンでは火葬場の機能が我が国と大きく異なることをまず知らねばなりません。
 ここでは遺体の柩を乗せた車両は裏側から地下の車寄せに横付けされ、遺体・柩低温保管室で厳格に管理され、その後、柩は予定される葬儀に合わせ、一階にある三箇所のチャペル(葬儀場)にリフトで持ち上げられるのです。一方、会葬者は正面から木立のホールを通ってチャペルに入ります。そこで葬儀を済ませますと、会葬者は来た路を引き返して葬儀は終了となるのです。柩は再びリフトで地階へ降ろされて焼却のタイミングを待ちます。焼却後、ご遺骨は係りによって拾骨されて納骨室に収められ、後日、遺族は骨壷を引き取りに来るという具合です。従って、葬儀の滞在時間は短く待合機能もありません。毎日何回転も焼却が行われますので炉数も少ないですし、チャペルの回転数も多くなります。
 独語しか通じない管理事務室で見学の許可をいただき、施設に向かう途中で日本人のグループに出会いましたが、竣工以来、見学人気の高い火葬場のようでした。ドイツはもはやビッグネームになっているシュルテスの設計ということも大きい理由でしょうか。
 さて、再びジーゲスゾイレまで戻りましょう。そこから東へ1km、ブランデンブルグ門、そしてパリ広場から、彼の有名なウンター・デン・リンデンが始まります。97年に再建されたホテル・アドロン、フランス大使館(ボルザンバルク)、英国大使館(ウィルフォード)、そしてDG銀行(ゲーリー)等話題作が目白押しです。
ベルリンの火葬場(2005)
 目指す場所はこのDG銀行の裏側にありました。構想以来17年。ホロコースト記念碑と呼ばれるものです。立派な施設が立ち並ぶ地域の直ぐ裏であるのに、このように刺激的な名称の、周囲とは異質なモニュメントの存在は、今から六十数年前、ここにヒットラーの塹壕があったといわれているからなのです。二万立方メートルの敷地に、柩をメタファーにしたのでしょうか、2700個のコンクリートの塊。それぞれ高さの違うコンクリートの塊。微妙に傾くコンクリートの塊。そして上下にうねって交差する細い路々。二つと同じ風景など存在しない、切り取られた青い空に光と影の交錯。
 ドイツ統一直線の1988年、歴史家のエバーハート・イェッケルとジャーナリストのレア・ロッシュが「看過されることなき警告の記念碑」の建設を呼びかけたことが、このプロジェクトの始まりになったと言われてます。様々な経過を経て、最終的にはホロコーストに関するアーカイブ施設を地下に付け加える形で完成したのです。風聞ですが、自分のアイデアをアイゼンマンが剽窃したと言っているリベスキンドの確執のおまけまで聞こえてきました。まあ、誰にでも思いつく単純なアイデアなのですが、それをまともにやって、承認して、造ってしまう。このエネルギーと拘りは、ドイツ人にとってあの過去の清算は一生終わらないと思っているからなのでしょうか。


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