(東京都建築士事務所協会月刊誌 コア東京に連載中)
第7回 ヴェニス(その1)
サンマルコ広場(2000)
1998年2月、82年以降三回目となる今回のヴェニスへの旅は、重苦しい思いを伴った辛い旅でした。この前年、私は最愛の同士、妻信子を癌で喪ったからです。生前故人が大層気に入っていたヴェニスの海に散骨しようと思い立ちました。気候的には一番不順な時期でしたが、大学生の息子を連れ、仕事の合間を縫ってヴェニス入りしたのでした。
アリタリアの機中では緊張感を持続させ、服の上から小さい硝子器を握り締め、マルコポーロ空港に降り立った時は夜十時半を多少回っていました。夜のことで、空港脇のタクシー乗り場からモトスカーフィ(水上タクシー)を使えば便利なのですが、私は息子の初めてのヴェニス入りに際し、どうしてもそのような安直な手段を使いたくありませんでした。
ヴェニスという街の放つ神秘性を順当に味合わせたかったのです。ですからタクシーでローマ広場まで行き、重いトランクを転がし、フォンダメンタ・サンタ・キアラ通りに面する波止場、ピアッツアーレ・ローマで20分待ってヴァポレット(水上バス)に乗り込んだのでした。暗く澱み、油のように重々しい質感を呈する海面は、周囲の黄色い光を受け、点描画の様に揺らめいていました。コートの襟を立て、マフラーを首に巻き付け、大運河を吹き抜ける寒風が肌を刺すのを少しでも防ごうと、少々気負い込んでいたようです。
乗客は疎らでしたが、対岸に交互に停まる各駅停車なので、それに合わせるように時間もゆっくり過ぎて行きました。漆黒の闇の中、ドッドッドッと焼玉機関の放つ独特の音と振動を響かせて船が前進すると、大運河の両側に中世の建物群が蜃気楼のように現れてはまた消えて行きました。石で造られた華麗なリアルト橋を過ぎ、木材で組み立てられた繊細なデザインのアカデミア橋を過ぎ、その度ごとに息子に解説したのですが、疲れと暗さで、いえ、不気味さも加わってそれどころではなかったかもしれません。
大運河(1998)
ようやく次は、サンタ・マルア・デル・ジリアです。ごくちっぽけな駅のうえ、仮説のテントに包まれて工事中でした。この駅を降りると、トンネル状になった建物の一階を通り抜けて進まざるを得ません。遥か遠くで、ぼおっと霞みながら黄色い光が瞬いて見えました。こんな時間、たった一人で、おまけに始めてのヴェニスであれば、思わず映画エクソシストのイントロ部分でも連想してしまうような心細い場面です。
街灯から放たれた弱い光の中で何かが連続して斜めに横切っているのに気が付きました。どうやら雪がちらついて来たようです。石畳から足先の底冷えのする寒気が伝わってきます。トランクを引っ張り上げながら小さい運河に架かる石の橋を一つ越えました。するとその向うにまた太鼓橋が見えています。これを越せば“テアトロ・ラ・フェニーチェ”。そう思ったとたん、眼前に巨大な仮説足場と防護シートの壁が現れました。
イタリアでミラノのスカラ座に次いで名を知られるオペラ座“ラ・フェニーチェ”は1996年1月29日、放火のため1792年の竣工以来2度目の焼失に遭遇したのでした。18世紀末、火災で焼失したサン・ベネデット劇場の後継の一つとして創建され、不死鳥と名付けられたオペラ座の名前が何か因縁めいて聞こえます。
Quadriga(2000)
私たちのホテルへの道は閉ざされました。暗い中、地図を広げ、回り道を確認して歩き始めましたが、真夜中の迷路都市とて、なかなか正しい方角を見つけられません。仕方なく回り道を選択し、サンタンジェロ広場を抜けると、細い道の奥の暗い中、右手から路上に明るい光が落ちています。思わず近寄るとそこは小さなパールでした。
中に入ると、ハンチング帽子を被り、歳のころ七十がらみの男がグラッパを呷りながら、こんな夜中に何事かと言うような顔をしてこちらをじっと見返しています。バリスタ(バールの主人)にホテルの場所を尋ねると、右手をくるっと捻り、バールを右に回って進めといっているようでした。こうしてラ・フェニーチェ・デ・ザルテイストにチェックイン出来ましたが、深夜の12時を大きく越えてしまいました。初めて足を踏み入れたヴェニスで、こんな洗礼を受けた息子は、恐らくこの間、緊張の連続だったかもしれません。
しかし翌朝は一転して真冬とは思えない快晴の天気になりました。バポレットでリド島に渡ると、休業中のホテル・エクセルシオールの直ぐ先の海岸でタクシーを降りました。この辺りの海岸まで来ると、コンクリート製の突堤が幾本も幾本も海に向かって直角に、ずうっと、ずうっと遠くまで伸びていました。ヴェニスではこのリド島の外側まで来て、やっと外洋としてのアドリア海に出合うのです。
突堤の先端に次々と波が押し寄せ、白い花吹雪のように砕け散っていました。手袋を脱ぎ、小さい硝子器をしっかりと握り、足元を確かめながら、海に向かって一歩一歩コンクリートの道を進みました。蓋をゆっくり回してコンクリートの上に置き、やがて覚悟を決め、思い切り良くそれらを遠くに放ると、重層された記憶の証は、あっという間にアドリア海の波間に呑み込まれて消えました。続いて息子も同じように繰り返したのです。これで終わり、次は陸の儀式でした。五日後にはローマのジャニコロの丘を予定していました。イタリアの海と陸、これが、私が精一杯考えた末の弔いの形なのです。ささやかですが一つの小さい終わりとなりました。たとえ仄かにであったにしてても、新しい始まりを迎えられる確信などありません。しかし特別な“何か”をしなければならない気持ちに追い込まれていたのです。
カルネバーレの女(1998)
こうして早朝のリドから戻ると、スキヤヴォーニ通りには大勢の観光客が溢れていて、予想しえないものに出会いました。極彩色に身を包んだ人々が、皆、仮面を付けて練り歩いていたのです。中世に始まったと言われるヴェニスの祝祭です。当然街にもそれらしい雰囲気があったはずですが、儀式が終わるまで気が付きませんでした。ホテル・ダニエリの前を過ぎ、とうとうサン・マルコ広場まで来てしまいました。
ドゥカーレ宮殿を右に回り込み、まず最初にサン・マルコ寺院の屋根に上がりました。狭い部屋ですが、広場に面してブロンズ製のQuadriga(四頭立ての戦車)が設置されているからです。ベネチア共和国がコンスタンチノーブルから略奪したものですが、18世紀末、今度はナポレオンがヴェネチアを屈服させ、戦利品としてこれをパリに持ち帰ったのです。ベルリンにあるブランデンブルグ門の屋上に飾ってあるものもQuadrigaです。19世紀初め、ナポレオンはプロイセンを打ち破り、これも戦利品として一時パリに飾られていました。しかしナポレオンが敗れると再びベルリンに戻され、翌年はヴェニスにも戻されたのです。戦う皇帝ナポレオン・ボナバルトは余程この戦う戦車の像が好きだったのです。
これまで多くの人々がこの祝祭の放つ華麗な、いえ、怪しい魅力に取り付かれたように、私も犠牲者の一人になりました。毎日毎日、夢中でシャッターを切り続けたのです。カフェ・クアードリの中で、マニン広場で、そしてサンステファノ広場に、ジャコモ・カサノヴァの翳を見かけたような気がして・・・・。
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