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著作

  風になって  記憶・人間・建築・都市
(東京都建築士事務所協会月刊誌 コア東京に連載中)

第19回 プラハ

カレル橋の上で(1996)
 ウィーン・シュヴェヒャート空港を飛び立った双発のプロペラ機は、低い高度を保ちながらルズィニエ・プラハ国際空港にふわりと着陸しました1996年4月末のことです。トランクを受け取ってタクシー乗り場へ向かいますと、先を歩く紳士は阪田誠造さんのようでした。おや?と思う間もなく外に出ると、広場にバスが繍付けされ、その前に十数人の日本人がたむろしています。林昌二・雅子夫、高橋?一夫妻、それに、うむ、松本哲夫さんまでいらっしゃるとは?日本建築家協会建集視察団のご一行で、普段行き難いブルガリアの“リラの僧院”などが予定に組み込まれた東欧を巡る旅とのことでした。プラハ4日間のスケジュールとおっしゃっていましたから、私たちの5日間の滞在と重なりました。
再開を期して別れたのですが、その翌朝、一階のレストランで朝食を済ませてフロントへ向かう時のことです。なにやら玄関ホールが騒がしいではありませんか。私が泊まっていたホテルといいますのは、市民会館スメタナ・ホールの脇に位置し、国指定の重要文化財にもなっている、1904年完成の古い建築をリニューアルしたホテル・バジーシュ(パリ)です。長らく接収されていたこの建物が持ち主のブランディ家に返還されたのは、ビロード革命後の1991年です。それから2年後、奇しくもチェコとスロバキアの連邦制が崩壊した年に、新しくホテルにリニューアルされてオープンしたのでした。アールヌーボー・スタイルの美しい外観や、内部パブリックの華やかなデザインは、まるでベルエポックの19世紀末にダイムスリップしたかのような姿になって、独特のオーラを放っていました。
その多少賑やかな御仁とは日本人の皆様で、手に手にカメラを掲げて写真を撮っています。ええ、ご想像のとおり、二日続けて同じ建築家のグループと鉢合わせしたのでした。早朝の散歩で、この古い建築に好奇心を持たれたようです。当時、私の友人がプラハに住んでいたことから、林雅子さんからプラハ最終日の晩餐会のアレンジを頼まれました。ちょうど日本大使館が利用し始めたばかりという、ヴルタヴァ川を見下ろす古い洋館レストランをお世話して、ご一緒することになりました。また、イエズス会の本拠地にもなったクレメンティヌム、鏡の礼拝堂でのオルガンコンサートのお誘いを受けたりもしました。
ユーゲント・シュティル様式(1996)
異国で偶然の出会いでしたが、旅は道連れということでしょうか、懐かしく思い出されます。
プラハでは旧市街のとある写真店で三台のカメラを買いました。当時、東欧では値段も日本より安く、上手くいけば掘り出し物にぶつかるかもと言われたものです。しかし、通しナンパーをつけて厳格に管理されてきたライカだけは例外で、個人から買い取る場合を除けば、なかなか逸品などには出合えません。第二次世界大戦後、ドイツは東西に分裂しました。ドイツ国民だけでなく、夥しいものが強制的に二つに分けられましたが、その一つがレンズメーカーのカール・ツァイス社でした。この戦争において光学機器の果たした役割は極めて夫きく、当時ではハイテク軍需産業的な位置付けだったのです。ツァイス杜は最先端を走る光学機器会社として、1846年、イェーナ市で創業しました。ドイツ敗戦時、イェーナはソ連占領統治下にありましたが、アメリカはカール・ツァイスの光学技術がソ連側に渡ることを恐れ、ソ連軍に先んじて技術者の多くを強削的にオーバーコッヘンに移動させ、ツァイス・オプトン社として光学機器の生産を引き継がせました。一方ソ連軍はイェーナの工場群を接収し、残った技術者は皆ソ連側に送られました。これによってカール・ツァイスも東と西に分裂し、ツァイス・オブトン社(西)、ツァイス・イェーナ社(東)の二社が、ドイツ統一の1990年まで変則的に存続することになるのです。
まずは製造番号480071、エルンスト・ライツ社のライカIIcです。この機種は1948〜51年に製造されました。レンズはライツ・エルマー50mm、f=3.5。次は、ペンタコンファミリーのプラクチカです。ウエストレベルのファインダーでスクリューマウント、1955年頃の製造。レンズはカールツァイス・イェーナ製のテッサー50mm、f=2.8。
聖ヴィート大聖堂(1996)
しかし一番興味を持ったのがドレスデンのイハゲー社製、1965年頃製造のエクサクタ・ヴァレワクスIIbでした。このカメラのユニークさは、シャッターダイヤル、シャッターボタン、巷上げレバー、フィルムカウンダーポタンなど、通常操作するものが全て左側についていることです。まさかイハゲー社の社長が左利きだったわけではないのでしょうが、理由を知りたいものです。プリズム・ファインダーが外せ、ウェストレペルとアイレペルのファインダーの両刀使いが出来ますし、時代はいよいよパヨネットマウント方式になりました。レンズはメイヤー・オプティク・ゲルリッツ製のドミロン50mm、f=2.0。私はコレクターではありませんが、長い間に計20台ほどの写真機を持つ羽目になりました。
ホテルから「百塔の街」と称されるプラハの旧市街を抜け、ヴルタヴァ川にかかるカレル橘に行く途中に大きい広場があります。カレル橋といえばヨーロッパに現存する最古級(1400年完成)の石橋だそうです。因みに皆様よくご存知の、パリ最古の橋ボンヌフでさえ1604年竣工ですからなかなかの古さなのです。この旧市街広場に面する旧市庁舎南壁に設置されているオルロイ(天文時計)は、その長い歴史、精密な機巧、スケールの大きさ、カラクリの演出、そのどれを取っても屈指の時計塔で、プラハ観光随一の目玉です。
旧市街 (1996)
この塔の広場を挟んだ対面にある小さい画廊で、さる画家の絵が紹介されていました。それは1961年にモスクワで生まれ、モスクワ第二芸術学枚で絵を履修した、コンスタンチン・フィリモノフと称するロシア人画家の個展でした。虹色の色彩、ゆがんだ背景、柔らかな線、細部にロシアの風景を引用して組み合わせ、ロシア文化の持つ個性的な世界を描き出そうとしています。多少シャガール的な印象もありますが、近年、絵はファンタジーからポップス調に変化しつつありました。その中で、妻が20号の油絵に惹きつけられたのです。それは伝銃的な衣装を纏ったロシア人女性が、スカーフを巻きつけたモジリアニ風の顔を傾げ、幾分悲しみを湛えた眼を虚ろに見開きながら佇んでいる絵で、彼の初期の作品です。女性像からはロシア正教のイコンの匂いも仄かに漂います。背景の右側に、葱坊主形の屋根が幾つか見られるところから、ロシアの街らしいことも分かります。街を形作る建物の姿は歪みながら重なり合ってシルエットをなし、その上に空が広がります。基本的な色調は青色ですが、これが全体に物悲しさを漂わせているようでした。
毎日、ホテルから旧市街を散策すると、必ずこの広場を通ります。午前と午後の二回、私達はこの画廊に立ち寄って彼の絵に見入りましたので、直ぐ店主とも顔見知りになりました。明日はいよいよカルロヴィ・ヴァリへ発つ日です。ついに妻はこの絵を買いたいと言い出したのです。幸運にも画家フィリモノフ氏と会うことができましたし、一緒に写真に収まることにもなりました。絵は木枠を外してキャンパス地だけとし、紙の芯に捲きつけてポスターケースに収めました。これ以降のことです。海外に出かけると、それまでの骨董に替わり、絵や彫刻を探し求めることになりました。

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