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著作

  風になって  記憶・人間・建築・都市
(東京都建築士事務所協会月刊誌 コア東京に連載中)

第14回 ミラノ

ドゥオモ広場(2001)
 ルネサンスの時代。16世紀初頭から死の直前までかかり、ミケランジェロ・ブオナローティは四つの“ピエタ/死せるキリストを抱くマリアの像”を彫りました。ローマのサンピエトロ教会内のバシリカに入って右側、第一礼拝堂の脇に、防弾硝子のパネルに囲まれたものが一番良く知られた作品で、これが第一作となりますが、何と24歳の作品です。ミケランジェロ彫刻作品の中で、最も完成度が高く精微を極めたものとして特に有名です。
 しかし私たち建築家は、日頃、新しい価値や個性的な視点を希求しているからでしょうか、それとも少々捻くれた価値観を振りかざす輩が多いせいでしょうか、この神がかり的な第一作の出来を認めつつも、しかし敢えてこちらの方が好きだと言いたいのが、最後の作品となる《ロンダニーニのピエタ》なのです。
 この彫刻はローマの“ロンダニーニ邸”に置かれていたのでそう言われるのですが、現在はミラノのスフォルツァ城博物館に飾られています。死期の近づく中、腰が曲って頭を上げることすらままならず、さらには視力を失いながらも、ミケランジェロは手探りで鑿を振るい、病に倒れる前日まで制作を続けたと伝えられているもので、未完成作品です。
 死の直前まで鑿と槌をという言い回しが泣かせますが、実はこの未完成、というところが重要な点なのです。あの時代、彫刻はみな具象でした。彫刻師にとってはそっくりに作る事が良い腕前の証でした。一方建築はといいますと、形態的には抽象の範疇に入ります。また荒削りの段階で、幽霊のように貧相な感じさえするマリアとイエスは、ビャンコ・カラーラの大理石に一体に溶け合いながら、抽象と想像の世界に私たちを惹き込みます。
ロンダニーニのピエタ(2001)
 良く言われることですが、石の中には既に彫刻が出来ていて、素材の命じるまま、彫刻家はそれを掘り出すだけであるとも。しかしルネサンスの時代に、この彫刻はそれとは一味違ったものになりました。強いクリエイティビティを感じますから不思議なものです。
 ですから写真の方も未完成の彫刻そのものを直裁に撮ることを躊躇しました。もちろん一人の観客として入館していますから、ライティングの設備もありませんし助手もいません。そんな時です。曇天の中、一瞬雲間から太陽が顔をのぞかせたからでしょうか、窓から射し込むごく弱い光がほんの一瞬強まって、ロンダニーニのピエタ像をまるで日光写真のように石の床に転写したのです。現在とは置かれた場所も採光状態も違いますから、残念ながらこのような写真は普通ではもう撮れません。これも写真の妙技《その場に居合わせること》の結果なのかもしれません。
 1992年、東急電鉄は桜丘町にある本社用地について、ファイブスター級のホテル+オフィスビルの複合開発という、懸案のビッグプロジェクトに取り掛かりました。直ちに日本を代表する数社の設計事務所が指名され、設計コンペが始まりました。ただしこれには海外で活躍する著名な建築家をチームに組み込んで提案する条件が付いていたのです。当時石本建築事務所で役員をしていた私は、東急文化村の実績から、東急グループの本拠地であるこの開発プロジェクトの社内担当になりました。
ミラノ中央駅(1991)
 私は女性建築家を起用するアイデアを役員会で発表しました。今でこそ女性が広く活躍する時代になりましたが、驚くことに、80年代ではまだ珍しい存在でした。60年代にジオ・ポンティによって書かれた著書《建築を愛しなさい》の中で彼が言っているように、“女性建築家など何処にもいなかった”という時代が長く続いてきたくらいなのですから。
 直ちに三人の女性建築家を選び、その中でガエ・アウレンティがベストであると役員会で承認を取り付けました。彼女は1927年にウディネの近郊に生まれ、ミラノ工科大学を卒業後、建築誌「カサベラ」の編集にたずさわった後、広範なデザイン活動を展開していました。オルセー美術館のリニューアル設計以外に目立つ建築の実績は少ないのですが、大きい話題になると確信していました。彼女には予めこのプロジェクトの概要をファックスで送り、前向きな返事をいただいていたことは言うまでもありません。
 ミラノ市内、サンマルコ教会に面する三階建てのこじんまりした事務所が初顔合わせの場所でした。彼女はロスから出張帰りで少々遅刻したのですが、疲れも見せず直ぐに打ち合わせに入りました。私は“貴方を選んだのは施主(東急)ではなく私自身だ”というセリフで口火を切りました。それに、あなたのアイデアやデザインは尊重するが、短い作業の中、少々複雑な事情もあるので、最終決定は全て私が責任を持ってすると付け加えたのです。
 費用の件では心配しましたが、設計事務所とはコンペに対してリスクを持って行うものだとして、破格に安い報酬で合意しました。まずアウレンティさんと私がそれぞれアイデアを出し合い、それをまとめて石本が図面化し、彼女の確認をとる。成果品の作成は全て日本側で行うことが条件でした。最後に、日本への出張2回(ファーストクラス)の費用と、都心で和室のあるホテル(キャピタル東急ホテル)が条件として追加されました。
 水とエスプレッソだけの打ち合わせは、夕方の予定が超過し、夜遅く11時に終わりました。ホテル・ピエールの近くでパンとサラダとビールを買い、部屋で夕食を済ませてから打ち合わせ記録をまとめ、東京にFAXを入れて第一日がやっと終わったのでした。
聖アンブロージョ教会(1991)
 こうしてミラノで2回、東京で1回の打ち合わせになりましたが、成果品の作成直後、ミラノでの最終打ち合わせがかなり厳しいものになりました。やはり夜遅く、なかなか纏まらない作業に苛立って、彼女は突然鉛筆を机に叩きつけたことがありました。私の出方を探っていたアクションでしたから、私は努めて平静を装い、駄目なものは駄目であると説得したのです。暫く沈黙が流れ、打ち合わせはそこで終わりましたが、胃の中に苦味を感じ、さすがに食欲もわかず、打ち合わせ記録を書くとそのままベッドに入りました。
 翌日は打ち合わせの最終日。アウレンティさんは昨日強引に押し付けようとした自分の案を引っ込め、突然まとめに入ったのです。基本コンセプト、各図面、主要デザイン、成果品の作成方法などの確認が、前日とは打って変わって嘘のように順調に終わりました。
 一カ月後の東京。東急電鉄に対する私たちのプレゼンテーションが終了し、それなりの手ごたえも感じていました。その夜の晩餐会のことです。彼女の挨拶は、必ずや良い結果を確信すると結び、笑いながらこう付け加えたのです。“しかし、石本にも石頭がいる”と。
 鉄の女と称され、強靭な個性を持ったガエ・アウレンティさんでも、あの日の最後の打ち合わせが相当厳しかったことがこの短いセリフで分かりました。求めに応じた寄せ書きに、私は躊躇無く《Testardo─頑固者─ASAMI》と書きました。晩餐会も終わり、彼女は社長を初め出席者の一人一人と握手を交わしましたが、最後に私の前に立った彼女は、暫く顔を見ていたかと思うと、突然、私を抱きかかえるようにして強く抱擁したのでした。後日、私達の提案には高い評価が与えられたと聞きましたが、残念ながら第二席となりました。今、その場所にセルリアンタワーが聳えています。

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