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著作

  風になって  記憶・人間・建築・都市
(東京都建築士事務所協会月刊誌 コア東京に連載中)

第11回 ウィーン

リングシュトラーセ・ギャレリー(1996)
 ケルト語のウィンドボナ(ウィンの町)を語源とするウィーンは、1910年に人口200万を越え、当時のヨーロッパではロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ大都会でした。20世紀も終わりに近づく頃、改めてウィーンの街に興味を持ちました。19世紀末、建築・家具・工芸・グラフィック・絵画・音楽などの芸術分野で、個性的なエポック・メーキングを爆発的に成し遂げた都市ウィーンを選び、来る20世紀末を見つめようと思いました。700年続いた栄光のオーストリー帝国を支え続けたハプスブルグ家の遺産が19〜20世紀初頭にかけて一気に街に流れ出し、資本家や民衆のエネルギーと共に一斉に開花したのはご存知の通りです。ヨーロッパではブルボン家、ロマノフ家なども壮大な王朝を築き長く栄えましたが、それでも200〜300年です。700年も続いた王朝はハブスブルグ家だけかもしれません。
 大量生産という形を持つ産業革命に対する反動も後押しし、19世紀中頃のイギリスでは、ウィリアム・モリスがアーツ・アンド・クラフツ運動を起こしました。一方ウィーンでは19世紀前半、理想に対する諦観や反発から、もっと日常的なものに目を向けようといった動きの中で、小市民的な生き方に即したビーダーマイヤー様式が流行っていました。しかし芸術統合化を含む新しい波は、もっと華麗に、そしてもっと過激に、この動きを一気に押し流しつつ、1919年、ハブスブルグ帝国は終焉を迎えたのです。
 建築家では、オットー・ワグナー(1841−1918)、ワグナーの弟子でウィーン工房を設立したヨーゼフ・ホフマン(1870−1956)、ホフマンとは同年・同郷の生まれで、生涯ライバルとして批判を続けたアドフル・ロース(1870−1933)、そしてヨゼフ・オルブリッヒ(1867−1908)などがリストアップされます。分離派の展示施設であり、芸術運動の記念的施設でもあるセセッション(分離派)館まで建ててしまうこの時代、社会の、芸術に対するエネルギーには凄まじいものがあります。館正面にメデューサの顔が三つ並ぶレリーフも、日本人から見れば過激なデザインですが、《時代にはその芸術を、芸術にはその自由を》のスローガンから、自分達が時代をリードしているとの若々しい自負がプンプン匂ってきます。1897年には、クリムト、ワーグナー、ホフマン、モザー等によってウィーン分離派が設立され、20世紀初頭、総合的な芸術運動としてウィーン工房を生み出したのでした。
シェーンブルンの庭で(1991)
 画家についてはクリムト、シーレ、ココシュカなどが挙げられます。嘗て私が籍をおいた石本建築事務所の創設者、石本喜久治(1894−1963)が渡欧した折に、クリムトの肉筆なるスケッチ集を入手し、その七十年後、ご子息故久男氏より拝見させていただいたことを思い出します。その旅でバウハウスを初めて訪れた日本人建築家が石本喜久治であり、美術評論家の仲田定之助でした。1922年、石本は父親が残した不動産を処分し、気ままな一人旅として渡欧したようです。東京大学を卒業し、竹中工務店に入社した後のことで28歳でした。大建築家、いや大芸術家であろうとも訪ねて相手を驚かし、何でも見て、写真を撮りまくり、書籍も買い込んでやろうと意気込んだ旅であったことが、建築譜(1924)から読み取れます。ベルリン、ポツダム街の美術書店で開かれていた、さる邦人芸術家の展覧会で偶然会ったのが、ワイマールから来ていたカンディンスキー夫妻です。この時、彼はバウハウス教官の職にあり、是非ともそこに立ち寄るように勧めました。こうして石本はカンディンスキーに紹介されて、ベルリンでグロピウスに会ったのでした。
 1954年5月19日、グロピウスが来日した折、石本は60歳で、夫妻の泊まったホテルまで届けた果物に添えた石本の手紙が残っています。手紙には、当時ベルリンで石本がグロピウスに会った、あの30年前の鮮烈な印象が、シカゴ・トリビューンの設計競技についてのことなども含め、progressiveという単語が繰り返されて詳細に綴られています。ヨーゼフ・ホフマンとウィーン工房がブリュッセルのストックレー邸で、建築、装飾、家具、食器、庭園までデザインしたように、石本も事務所設立間もないこと、住宅建築やそのインテリアだけでなく、家具や食器類の設計までしているのです。保存されている図面は海老原一郎の作図印が押され、彼に食器類のデザインを担当させたことが良く分かります。
ハースハウス(1996)
 クリムトは父が彫版師であったことや、博物館付属工芸学校に入学したことで、既にデザイン装飾家としての名声を得ていました。作品の理解にはこの生い立ちを知ることが重要です。クリムトの絵には甘美で妖艶なエロスだけでなく、常に死が付きまとっていると言われますが、金箔を多用したことなどからも分かるように、工芸的且つグラフィカルな処理を多用したデザイン性にもその特徴が見出されるのです。また、ラファエル前派に見られるファム・ファタル的な女性像や、その寓意性の扱いにも大きい特徴が見られます。
 多少野次馬的な話しになりますが、2006年、クリムト作『アデーレ・ブロッホバウアーの肖像I』の絵が史上最高値の1億3500万ドル(160億円)で売却されたニュースには驚きを禁じえません。1990年、ゴッホの名画「医師ガシェの肖像」の時は日本人の実業家でしたし、8250万ドル(125億円)で仰天したものです。しかし2004年、ピカソの代表作「パイプを持つ少年」は1億416万ドル(114億円)で落札されました。しかしです。2006年後半、ジャクソン・ボロックのNo.5,1948と名付けられたドリッピングの手法で描かれた縦2.5mの作品が1億4千万ドル(165億円)で落札された記事を目にしましたが、一体どのような計算でこのような結果になるのか、芸術商売の世界は到底理解できません。
リングの街角で(1996)
 さて、音楽に移りましょう。彼の有名なウィーン楽友協会のグローサーザールでウィーンフィルを聴いたことは、残念ながら私はまだありません。ブラームスザール(小ホール)で室内楽を聴いたり、施設見学を何度か体験してはいるのですが。しかしウィーンフィルは、シュターツ・オパー(オペラ座)で二回聴いています。初回が1991年、ポーランドの作曲家ペンデレッキの《黒い仮面》で、次が1996年、R.シュトラウスの歌劇のうち、最も上演が難しいとされる《ナクソス島のアリアドネ》です。
 1996年春、プラハの帰路ウィーンに立ち寄ったときのことです。ホテルを通して入手したチケットがPARTERRE-8の最前列(ボックスシートの1階下手側中央)でした。二本の大臣柱が上手側斜め正面に見えています。真っ赤なビロードで内装されたこの席でも第二順位のカテゴリーなのですが、まるで貴族の仲間入りをしたような錯覚に陥りますから不思議です。それまでは、1階平土間のPARKETTかPARTERREばかりでしたから幸運でした。手配を頼んだコンシェルジェからは、高い切符の上に更に40%のチャージが加わるがどうするかと訊ねられました。しかし、この《ナクソス島のアリアドネ》が妻と聴いた最後のオペラになりました。全ての観衆にとって記憶に残るようなオペラでしたから、当然のスタンディング・オベーション。舞台へ向かって惜しみない拍手を贈る際、このバルコニー席に連なる観衆同士の無上の連帯感といいますか、今夜この席に座れた喜びと誇りに浸りきる恍惚感には少々気恥ずかしいものがありました。  

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