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ロアーマンハッタン(1992) |
ハンティントン・アヴェニューに面した正面玄関は、前面道路の立体化によりその役割を終え、車寄せスペースはクリスチャン・サイエンス・チャーチセンター側のマサチュセッツ・アベニューに面して確保されていました。普段ここは細長い駐車スペースとして利用されているのですが、その日は少し様子が違いました。派手な白塗りのリムジンが続々と到着し、第一正装に身を包んだセレブな紳士淑女が一斉に降り立ち、紺色の絨毯を踏みしめて、面する脇玄関から細長い形の玄関ホールに入ってきていたのです。
1987年5月初旬。それもそのはず、今晩は特別な日でした。80年、アーサー・フィードラーの後を継ぎ、ボストン・ポップス・オーケストラの指揮者となったジョン・ウィリアムズのポップスコンサートの初日、プレミアムショウが催される日なのでした。一昨晩、小澤征爾指揮なるボストン交響楽団の今期最終演奏は盛会のうちに幕を下ろし、興奮冷めやらぬ余韻の続く中、この晴れがましい初日を迎えました。1900年に完成した、マッキム・ミード・ホワイトの設計なるボストン・シンフォニーホールは、クラシックからポピュラー・コンサート会場への模様替え作業で、昨日の早朝からとても慌しい状況でした。
東急文化村を設計する折、サントリーホールを意識してシューボックス型にしたわけではありません。百貨店の裏側にある狭隘な更地の駐車場を敷地とし、そこに2150席のコンサートホール、747席の劇場、映画館2館、美術館、録音スタジオ、ギャラリー、レストラン、カフェ、本屋、駐車場などを複合化し、全てを収めることが設計の条件でした。あの場所を良く知る多くの方から、よくもあれだけ入るものですねと変に感心されたほどです。事業主の東急さんからは、相乗効果を狙っているから全部必要な機能ばかりで、どれか一つでも欠ければ事業を止めるしかないとプレッシャーを掛けられていました。ですから狭い敷地の中で、シューボック型のホールでさえ収まるかどうか危ぶまれるほどでした。しかしこれを逆手にとり、機能の特化を謳い文句に、コンバーチブルホール呼称まで生み出すことになりました。つまり、音響的に第一級のコンサートホールの性能を維持しつつ、他の目的(オペラやバレーなど)にも両立して使える設計を目指したのです。
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W.F.C.からW.T.C.を望む(1992) |
厳しい条件でしたから、全体レイアウトを検討する過程で、大ホールに使える形が必然的に決まりました。その平面形、幅22〜25m、奥行き36〜39m、全長54〜60mの寸法は、偶然ですが、ボストン・シンフォニーホールのプロポーションに良く似ています。座席数の差(ボストン2631席、文化村2150席)は、概ね座席の広さとの関係になりますから、これが残響時間に関係し、文化村のオーチャードホールの方が0.2秒ほど長くなりました。
ボストンはウィーンの楽友協会ホール、アムステルダムのコンセルト・ヘボウと並び、超100歳の世界三大シューボックス・ホールと称されるほど著名な音楽ホールです。シューボックス型はエンドステージですから、舞台側の反射板等を工夫すればオペラやバレーにも使うことができます。結果として、サントリーホールとの差別化が計られ、2000席を越える日本で始めての本格的シューボックスタイプのコンサートホールが完成しました。
さて、会場の模様替えは意外な姿を見せてくれました。まず一階席の座席は全て撤去され、中央の切り穴からリフトで地階に格納されました。ボストンの場合、1階客席の前半分は平土間ですし、後部の床勾配はかなり緩いものです。この斜め床部分もごく小さいサイズのブロックに分解され、同様に地下へ運ばれて一階席は完全な平土間となったのです。
そうです、それはまさしく舞踏会場風でした。真っ白なリネンのクロスに覆われた丸テーブルと椅子が並べられ、シャンパンとグラスがセットされ、プロセニアムとステージの後壁には花飾りのデコレーションが取り付けられ、次第に雰囲気が整ってきました。我が国にもコンサート専用ホールが続々と誕生していますが、高度なレベルで、複数目的に使用できる工夫や運営マネージメントが、ソフト、ハードともに求められていると思います。
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W.F.C.ウィンター・ガーデン(1992) |
この五年後の1992年。ちょうど着工したばかりの所沢市民文化センターのため、シカゴ、ボストン、ニューヨーク、ダラスの類似施設を見て回っていた時のことです。1月2日の早朝、マンハッタン上空にはひとかけらの雲も無く、地表の温度も放射冷却によりマイナス側へ大きく振れている時刻でした。シカゴ・オヘア空港を飛び立った便は、その澄み切った大気の中を、世界一の一枚岩盤上に築かれた、まるで精密模型のような都市景観を眼下に見やりながら順調に高度を下げ、島の突端にあるバッテリーパークを大きく回り込んで左旋回しました。ロアーマンハッタンのシンボルになっているワールド・トレード・センター(W.T.C)に、左の翼が届くのではないかと一瞬思うくらい接近しながら、ラガーディア空港に着陸したのです。思わずハッとして手元にあるカメラを取り上げ、シャッターを切ったのですが、カメラには85mm、F-1.8のレンズが装着されていました。
2001年春のことです。その11月に南青山のORIEギャラリーで写真展を開くことが決まりました。それも、テーマを《都市の記号/Symbols in the cities》とし、“建築は都市の記号”であるとする副題と、展示シナリオの概要まで決めていました。ギャラリーの正面玄関に飾るメーン写真を、表題《都市の記号》の象徴としてニューヨークのマンハッタンを選び、この写真を使うことが決まっていましたから、なおさらのこと、半年後に起きた、あの悪夢のような9.11テロに対する衝動はたとえようも無く大きかったのです。
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W.T.C.頂部(1992) |
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W.T.C.基部(1992) |
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不幸で痛ましい事件の後、暫くして私は考えました。世界中のあらゆる場所から憎しみを取り除き、悲しみ溢れる記憶の場とするためにも、この跡地に建物を建ててはなるまい。メモリアル・パークとすべきであると。それによってアメリカとアメリカ人は本当に世界中の国々から尊敬と賞賛を勝ち得ることが出来るのだと。しかし私は、そこがアメリカであり、また、アメリカの中心であるニューヨークのマンハッタンであり、マンハッタンの象徴であるシンボル的建築であることを、それにアメリカ人が、挑戦すること、切り拓くことによって生まれたアグレッシブな民族であることを、同じく忘れていたのです。
この事件で喪失した事務所床面積の合計が、マンハッタン島のオフィスビル面積の10%になっていたと伝え聞きました。いえ、1%ではありません、10%です。資本主義の経済原理から言えば、私の考えなどとるに足らぬ青臭い戯言なのかもしれません。
当初の再建案についてはあまりにも経済復興色が前面に出過ぎた案で、多くの遺族の反対によって撤回されたようです。しかし最終的には旧W.T.C.ビル(110階、417m高)を遥かに超える、高さ1776フィート(約540m)の建築提案を採用し、フリーダム・タワーとさえ名付けてしまうとは、世界中からやはり傲慢な国と見られないかと、他人事ながら心配してしまいます。多国籍民族によって誕生したアメリカという国家は、常に具象的なイコンが必要なのでしょうか? リベスキンドが提案した当初の設計とは大分変わってきているようですが、2011年の竣工を待ちたいと思います。