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著作

  風になって  記憶・人間・建築・都市
(東京都建築士事務所協会月刊誌 コア東京に連載中)

第16回 バスク

エドワルド・チリダ美術館(2003)
 バスク語とはスペイン語やフランス語はおろか、世界の如何なる言語からも独立した特異な言語であるため習得が困難とされ、「悪魔でさえバスク語を学ぶ罰が与えられると神に許しを乞う」などと囁かれていることを小耳に挟み、無性に旅に出かけたくなりました。
 パスク地方の大西洋沿岸。国境から20kmほどの距離にフランス側がビアリッツ、そしてスペイン側がサン・セパスチャンと、競い合ったように二つの都-市が並んでいます。今やビスケー湾に沿った屈指のリゾート都市として有名です賦両都市には歴史的にも同様の背景があります.仏国ウージェニー王妃や、西国マリア・クリスティーヌ王妃のために,19世紀に造られた夏の離宮や別荘が、現在それぞれ高級ホテルになっている街というようなのです。
 ピアリッツで過ごした休暇の後、鉄道でサン・セバスチャンへ移動しましたが、言語はフランス語からスペイン語に、いえ、普通電車でしたから、あれこそがパスク語だったのかもしれません。運良く隣に乗り合わせた英語の先生の説明によりHend-aye駅で車両を乗り換えました。線路幅がフランスは1435、スペインは1668mm。フリーゲージ機構無しのローカル車両では乗り換えざるを得ません。そこは情熱の国スペイン。彼の恋人が駅まで出迎え、大げさな身振りで近寄るや、ホームの上で長い抱擁をしていたのが印象的でした。
 ビスケー湾の真珠と称される美しいコンチャ海岸を持つサン・セパスチャンは、小高い山を先端に持つ小さい半島が左右から突き出て、険しい形の島がその括れた海の中央を塞ぐように聾え、ジュール・ベルヌの映画で描かれるような絶景の入り江を形作っています。
 長い歴史を継承し、高雅な空気がそこはかとなく漂っているような街で、NIZAはコンチャ海岸に面する40室ほどの、小さいけれど瀟酒なつくりの白いホテルでした。夏の観光シーズンも終わりに近づく中、私はたいした目標も無くそこに逗留したのでした。パスク入でもあるスペインの建築家.ラファエル・モネオの設計で、国際映画祭の主会場となるクルサール(文化センター1999年)を見ることくらいはと漢然と考えていたのですが、この小さい三ツ星ホテルのフロントで、ある特別な偶然に遭遇してしまったのです。
グッゲンハイム美術館(2003)
 私がブロンズの彫刻を始めて間もない頃、さる高名な彫刻家からエドワルド・チリダの存在を知らされました。難解で分からないともおっしゃって、諭文のコピーまで手渡されましたが、どうやら私が建築家だからと、その拝在を教えてくれたのです。何しろマドリッドの大学で建築を学んだのに大彫刻家になってしまった人物です。偶然フロントに貼られたポスターを見ましたら、なんとそれがチリダの彫刻。おやっと恩って隣に眼を移すと美術館の案内広告。実は、チリダは1928年にこの地に生まれ、アトリエを建てて制作活動を続け、現在、郊外のHernaniにチリダ美術館Chumda Lekuが建てられているのでした。
 バルのカウンターで、サルサ・ブランコ (白いソース)をかけた魚や野菜のタパスとビールで慌しい昼食を済ませ、タクシーを捕まえてチリダ美術館と言ったのですが運転手に通じません。紙にChillida Lekmと書くと,なんだ、“チジーダ”かと言って頷きました。確かに、Sevillaはセビージャの如く、LLiは、“リ”"だけでなく“ジ”とも発音するのです。
 鬱蒼とした木々に囲まれた受付棟を抜けると、緩い起伏の広大な芝生の丘に、巨大な鋼鉄のオブジェや石の彫刻が点在しています。頂にはバスク地方の古い民家を移築したらしい美術館が見えます。彫刻の力強く雄火な姿は、私たちを包み込んで優しく迎えていました。溶解した鋼族を押出し、圧延し、澄色の肌を曝け出す僅かな間に引っ張り、曲げ、叩いて作られるチリダの作品は、鉄と激しく格闘し、人間の生命力のほとばしる場で生を受けるのです。注連縄によって結界を講じ、製鉄所を神聖な刀鍛冶の場に変えたかのようでもあります。しかし一旦完成して空間に据えられると、激烈な戦いなど無かったかのように周囲と対話し、環境に溶け込みます。激しい情念と寡黙な静謐さの神々しい同居。巨大であるのに、建築と彫刻との相克など感じられず、自然の一部に成りきっているのでした。
さて三番目のバスク都市は、グッゲンハイム美術館によって、今やすっかり有名になったピルバオです。F・0・ゲーリーは航空機設計用のCADソフトと人材を得て造形したとも言われていますが、ご承知のように完成後の経済波及効果は予想以上です。かく言う私も直ぐ写其を撮りに行きましたが、話は当の美術館ではなく航空機の話なのです。
グッゲンハイム美術館(2003)
パリからビルバオへの飛行棲はERJl40。今や大評判のブラジル製小型ジェット機です。190型などは他と比較し、軽くて経済的との謳い文句です。公開されているホームページで図面を見ますと、この140型の客席は幅43cmの通路を挟み、左右に1席2席で配置されて計44席。客席幅は43.9cm、前後のピッチは78.7cmなので、エコノミー席としては平均的ですが、問題は天井高です。通路部分でさえ170〜180cmですから、私のように平均的な身長でも天井に触りそうです。更に客席部分の天井など、驚くべきことに高さl39cmしかありません。内径2.1mの円形断面空間で、機体の厚みは僅か9cm。最前部の1、2列目は右側のガレーのために1席配置です。最後列に座り込んで前を見た瞬岡眩暈に襲われました。客室乗務員に頼んで最前列に座らせてもらったのですが、軽い閉所恐怖症に襲われたようなのです。後で調べますと、何らかの恐師症を持つ人が30%になるデータもあるくらいですから、まあ人間の証のようなものでしょうがこの酷い挟さです。じっと目を瞑ったままの耐え難いフライトになりましたが、この族にはもう一つ散々なおまけが付きました。
クルサール広場/サン・セバスチャン
(2003)
なんとかピルバオに着陸しましたがトランクが出てきません。エールフランスは既に店じまい。イペリア航空でクレームの手続きを済ませ、ホテル・カールトンにチェックインしたのは夜もかなり遅くです。撮影機材も何も無い状況でペッドに入ったのですが目が冴えて眠れません。明日は朝からグッゲンハイム美術館の撮影を予定していたからです。
明後日はパリ経由でマルセイユ。しかしあの飛行機には金輪際乗りたくありません。フロントで地図を見ますと、ピルパオからマルセイユまで、当たり前ですが陸路が繋がっているではありませんか。タクシー料金をコンシェルジェに訊ねると彼の顔色が変わりました。1000kmもありますから当然で、回答は20万円。この費用を払えばあの飛行機に乗らずに済む安堵感だけでも収穫です。道々写真を撮りながら移動すれば、これはこれで良いのだと思えば・・・。雨が多いガリシア地方のとおり、翌日は朝から酷い土砂降りです。午後2時、やっと荷物がホテルに到着するのに合わせたように雨も上がり、雲間から太陽が覗きましたから、僅かながらもシャッターを切ることが出来ました。結局はこの20万円が惜しく、再び最前部の席をリクエストして、目を瞑ってパリCDGに戻ったのでした。
これ以降のことです。前もって、あらゆる方法を駆使して使用機材(飛行槻の型式)等をチェックした後、チケットを手配することになったことは言うまでもありません。小さな都市へ行くときは陸路のチェックまで真剣にしています。しかし現在でも、旅を続け、写其を撮ることの呪縛から逃れることは決してないのです。

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