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著作

  風になって  記憶・人間・建築・都市
(東京都建築士事務所協会月刊誌 コア東京に連載中)

第8回 ヴェニス(その2)

ブリオン・ヴェガ(2000)
 1998,99年と続いたヴェニスの撮影もいよいよ2000年で終わりになりました。この秋には、三冊目の写真集《Rite of Light III 2000》を出版し、写真展も開くことになっていたのです。モノクロームにカラーも加え、夥しい写真を撮ってきましたが、肝心のテーマが定まりません。所狭しと書店に並べられたカーニバルの写真集。これらを超えねば、否、超えずとも、新しい視点を切り妬かなければなりません。確固としたコンセプトを築けずに写真を撮り続けていた自分が情けなくなりました。しかし迷いに迷っていた考え方が、出発前にやっと定まったのは幸運だったというべきでしょうか。
 ポイントは二点です。まず全てモノクローム写真とすることでした。この色彩溢れる華麗な祝祭は殆どがカラーの写真集で発表されていましたから、色に頼らない写真ということです。もう一つは、写真の中にいかにもヴェニスであるかのような風景は極力入れず、扮装する人間を中心に表現しようと決めました。“様”になり過ぎる写真は避けたのです。
 極寒の季節のヴェニス。扮装者は金襴緞子の装束を着け、仮面を被り手袋をはめ、足も手も、全てが覆われていましたが、その中で外気と触れる部分が一箇所だけあることに気が付きました。それが眼の存在です。仮面に穿たれた眼。そしてその奥に潜む生身の眼。この四つの眼に着眼し、テーマ《ヴェニスの眼》が決まったのでした。
仮面の祝祭(2000)
 もちろん直裁的に眼を写すわけではありません。眼や視線などを意識して撮ったつもりです。毎日シャッターを押し続け、一日500枚を超えた日もありました。しかし誰が撮っても絵になり過ぎるのがヴェニス。自分の写真にすることは実に難しいことなのです。コンセプトを決めたにしても、ほとんどの写真は感性に頼りました。その瞬間をじっと待ち続けたり、論理的な積み重ねを考えて撮る写真でもありません。シーンは刻一刻と変化してゆくからです。もちろんモデルも使いませんし、一言も注文も付けずにシャッターを切りました。ええそうです。自然の流れに任せました。出来れば風のようになって・・・。
 雪に降られたのは99年に一日あっただけで、毎年、おおむね好天に恵まれました。この時期、ヴェニスの気温が予想以上に温かいことも知りました。おまけに街は小さく、どこに行っても人いきれで一杯です。カフェやバールもそこら中にありますし、ホテルに戻ることも容易です。こうして散骨から始まったヴェニスの撮影は三年間続き、6000枚の写真とともに一旦終了したのでした。
 2000年5月、何の前触れも無く、ヴェニス・ビエンナーレ建築展のオープニング式典への招待状がコミッショナーから届きました。それも、予期しないことにオーストリーの建築家ハンス・ホラインからでした。招待状はいただいたものの、航空券などが付いているわけでもなく、最初は行くつもりなど無かったのです。しかし当時、私は日建設計に籍をおいておりましたが、周囲の強い勧めにより翻意したのでした。ヴェニスの撮影が終了したばかりですのに、6月、私はまたヴェニスの土を踏み、いえ、運河を渡ることになりました。
 オープニングの前日、各国の展示館が並ぶジャルダーニ公園へ行きましたが、皆、通行バスをぶら下げて出入りしています。関係者でもプレスでもありませんから。本来この日は入場などできなかったはずでした。
マスケラ(仮面)(2000)
 途中、フランス館に立ち寄った時のことです。ホワイトボックスを繋いだだけの単純なコンクリート建築の中で、一人の男が白い壁に向かい、赤と青のクレヨンで無心に文字を書いています。室内は全て夥しい文章で埋め尽くされていました。顔をひょいと持ち上げてこちらを見る顔は、果たしてヌーヴェルでした。再会の握手を固く交わすと、彼は傍らにある模型船を指差し、シャルダーニの船着場にも是非立ち寄って見てくれと言いました。
 彼の友人の後日談です。今回ヌーヴェルはビエンナーレには関係せず、何人かの若手建築家を推薦したようでした。しかし結局まとまらず、ヌーヴェルにお鉢が回ったのです。彼は世界的な大問題である環境破壊に着目しました。ええ、今流に言えばゴアさんの“不都合な真実”です。世界中から賢人をヴェニスに招き、追悼に繋ぎ止めたあの船の中で、各々が提案し議論し合う様子を衛星放送で世界を伝えるアイデアを出して承認されたというわけです。結局ヌーヴェルはこのプレゼンテーションで金獅子賞を受賞したのでした。
 翌日開かれたオーストリア館のレセプションには、ムラーノ在住の硝子作家土田康彦氏を伴って出席しました。オーストリアのクリスタルメーカーであるスワロフスキーの創立200年祭が1995年、青山の家具会社アンビエンテ・インターナショナルで開かれ、私はS社の社長の求めに応じ、宴会場用にデザインしたシャンデリアの1 / 2模型とCGバースを出品していました。その折にS社のデザインディレクターを務めていたアレッサンドロ・メンディーニと私との通訳をしていただいた人が土田氏だったのです。その三年後、ヴェニスで撮影の折、ふらりと立ち寄ったムラーノで、硝子工場のマネジャーになった彼と偶然再会して以来、新しい付き合いが始まりました。
海軍士官の結婚式(2000)
 それにしてもヨーロッパ人は羨ましい。二年毎のこの祭典に、日帰りか一泊で出席できるのです。それに比べ、日本ではせっかくの機会と考えて最低一週間の工程になりますから、なかなか出掛けられません。地理的なハンディキャップを背負っているのです。ジャルダーニの最奥に位置するオーストリア館の入り口で、シャンパングラスを一つ手渡されました。シンプルでモダンな白いバビリオンでは、フクサス、クック、ハディドなどのプレゼンテーションが華やかな装いのゲストを大勢集めています。会場で何度かホラインを見かけましたが、いつも誰かと話し込んでいて、言葉を交わす機会を逸しました。
 翌日、半日の空き時間を利用してトレヴィーゾを訪ねました。パッラーディオ設計のヴィラ・バルバロや、スカルバ設計のベガ家一族の墓など見所の多い所です。ヴェネチア共和国の時代、ヴェニスの金持ちはこの地に邸宅を構え別荘を所有していたのです。ヴェニスの建築家は新築の仕事が無いこともあり、将来の金持ちを夢見る住人に対し、仮想的に住宅の絵を描くことで生活を支えていたようです。注文主はそれらを額装して居間に飾り、いつの日にか実現させる夢を見ていました。この時代、多くの市民は日常メストレとかトレヴィーゾなどの陸地で生活し、敵が攻めて来ると迷路の“海の都”に逃げ込んだのです。
 さて、スカルバの傑作ブリオン・ベガですが、平坦な畑地の中でコンクリートの塀に囲まれ、密やかな佇まいで建っています。世界中に知られる有名建築ですから、見学者の絶えることなどなく、この日は韓国や中国人の団体が見学に来ていました。さして広くない土地で、素材、形態、ディテール、配置構成などの要素が綜合され、工芸品のように珠玉な建築を創出させているだけでなく、黄泉の世界にもこのような都市計画が必要であるかのように、個性的な小宇宙を展開させているのでした。


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